サルガトの写真を批判しているブロクを見たことをキッカケにして、ボンクラな
自分の見解を検討・・・。
サルガト写真展を数年前にベルンで見て感動、その後彼の写真集を見て再び心を
動かされた。難民のドキュメントなのにあまりにも「美しい」・・・という批判
を見聞したが、「そうかなぁ~」ぐらいで深く追求していなかったのが、今回
何故か気になり始める。
このことを考えることは、写真家にとって重要であることに遅ればせながら
気がついた・・・と云うことらしい。
取材費をやるから、難民を撮って来い!・・と言われれば、多分ボクの写真は
サルガトの写真のようになるような気がする。彼以上にその場に最もふさわしい
光影をとらえようとする自分をボクは簡単に想像できるのだ。
ただスーザン・ソンタグが言ったという次の事柄
“サルガドの写真によって、個人の、個別で無二であるはずの悲惨が抽象化され
世界中の悲惨がひとまとめにされるとする。そうして喚起された抽象的な同情は
具体的で個別の行動であるはずの政治と真剣に向き合うことを避けるのだ”
『他者の苦痛へのまなざし』
写真:自写像より「パピヨン」
ここを読んだあたりで、ボクは自分の写真の信条のようなものの一つを
思い出した。ボクの写真はあくまで・悪魔で『個人的』であること。
ボクがカメラを向けるのはボクが興味のある「人」「事」「物」「猫」
であることが絶対で、他人から頼まれて撮るナドということは
ありえない・・・ということだ。(そこまでストイックでもないか)