拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

必撮無眼流 - 写真

 先日パリ・フォトから帰ってみると 友達からメールが来ていて 写真の話が書かれていた。

 (最近のデジカメ&コンピューターの組み合わせで 簡単にきれいな写真を撮れるので 写真と無縁の様な 自分でも
 キレイなものを見ると カメラを向けるようになった・・・誰でもそれなりの写真を簡単に撮れる時代って 写真家にとって
 どうゆうものなんでしょう・・・) と 云うような内容のメールであった。

 このパリ・フォト2011のおかげで出会った 写真家(本人ではないが)須田一政さんの ブログをみると 須田さんは
 長年 写真塾を行われている事を 知った。 その彼の どこのページであったか?
 この上の質問にちょうど答えてくれている文章にであったので ここにコピーさせていただこうと思ったが 見つからない。
 
 ボクの考えと 同じであるとおもったが だいたいこんなような考え方:
 ボク考え~ カメラがどんどん発達して ほとんど眼で見る機能と 同じ程になり カメラという機材も必要なくなり
 眼で見たままを 気に入った所で 瞬きすることでシャッターが切られる・・・みたいなところまで 写真機が発達した時

 写真家の仕事は なんだろうか? 何をどのように 観ているのか・・・そこの一点に かかってくるのだと 思う。

 つまるところ 写真家の「家」は その人の「人間性」みたいなとことに やはり 当然のごとく 落ち着くのではないだろうか。
 写真家の「写真」の部分での 制限 ここにも 写真家としての 個性を 発する要素があり、「人間性」と制限である「写真」
 の融合が 写真なのだ・・・という きわめて 当たり前な 所に ボクの答えが落ち着いた。
 ここまで書いてきて  これで答えになっている?・・・とふと 自問している。

 須田さんは 写真が簡単に撮れるようになったぶんだけ (写真表現は)難しくなっている・・・と云うような事を
 書いてらっしゃった・・・様な気がするが?(違ってたら スミマセン)、もしボクが東京に住んでいたら 須田さんの
 塾にはいりたいなぁと 思う。