彼女が今日の彼女になったのは 1970年代に訪れたラダックでの生活体験によってであるが、
彼女の本を読み始めていると 36年前ボクが26歳の時のある思い出を 思い出した。
ボクは一念発起して英語を勉強するために大阪近くの枚方市にあった英会話学校に入った。そこは住み込み式イングリッシュ・ボウディング・ハウスで
外人先生も生徒も一緒に住んで 出来るだけ英語に接する時間を持たせる、という主旨の英会話スクールで、個性のある先生達がいたし、学校の企画で
皆で禅寺へ坐禅をしに行ったりして結構楽しかった。
確かその禅寺に行った後のことであったと思うが 数カ国語話せる若いオランダ人の先生コンラッドが 授業の時「君たちの文化はとても
素晴らしいのに、何故コンクリートの家に住んで 昔のような 畳とふすまのある家に住もうとしない?」と質問してきた。
それが事の発端となって 生徒 対 コンラッド の対立になってしまったのだ。
その時点では ボクもコンラッドの考えは わかるけれども 発展の逆戻りは出来ないし 第一、畳+ふすまの家の方が 高価であると主張、
コンラッドの考えは 無理なことを言っている・・・と 全く受け付けることが出来なかったのだ。
しかし、今 ヘレナの本を読んでいて 僕らとコンラッドの間に 何が起こったのか・・・ということが よく解かる気がする。
ヘレナも初めはそうだったようであるが、ボクも発展の波は止めることができないし、その必要もなく、時代とともに新しい環境を獲得
してゆくことが 人間の宿命みたいなものなんじゃないか・・・と、しっかり思い込んでいた、或いは 思い込まされていたのだ。(洗脳)
発展することで「幸せになれる」・・・という事を疑ることが 何故かなかった。そしてその事を二度と考えることも しないでずーっときた。
しかし、ヘレナが、そしてコンラッドが疑問を持ったように 発展=幸福・・・であったであろうか?
3・11は 我々にその事を ハツキリと 問うて来たのだと思う。 ボクも今日の今日までそんな事に気づかずに 生きてきたことが チョッピリ
恥ずかしいが、 考えてみると「禅」の生き方そのものが ヘレナが我々に示そうとしている生き方そのものでもあった。
彼女のラダックの体験は「仏教」の真髄の体験そのものであったから 当然の成り行きであるけれど。
この経済のグローバルゼーションの世の中に 大地にしっかり足を置く ローカリゼーションの生き方を 力強く喚起する その意義は
ことに大きい。

わが相方も この疑問を持った結果 今の仕事をやめることを決意し 新しい可能性を模索中(57歳だけど・・・)