この言葉 「止観明静」に至った。(天台宗の摩訶止観から来ている言葉のようであるが、ボクの必撮無眼流に思想をアレンジした)
確かに。 これほどビデオカメラが 発達+普及し 動画が我々の日常に浸透しているのに 何故か このかったるい 静止「写真」がいまだに 人々を
魅了するのか?
ここを ジックリ捻提(ねんてい=頭で考えるのではなく、全身全霊で捉える事)するのが 優れた写真家への王道であろうか。
心の琴線に 触れる・振れる・震れる ”瞬間”を 永久的に停止させ いつ見ても 何度見ても その感動が蘇えさせる・・・のが芸術なのでは。
止観の止は その一場を 止める事ではなく 心の働きを止めた時に 観える 琴線の音色なのだ。
(・・・と、カッコ付けて 言ってみたものの そんな事言ったら これからもう写真を アップ出来ないんじゃないだろーか、・・・などと
心配になってきた。事実、これまで沢山写真展を 観てきたが、写真に添えられた文章が立派そうな割に 写真が貧弱な写真展が あまりに多い。)
そこで思い当たることは ボク自身の ブログだろう・・・タイトルが大げさな割に 内容が伴わないのが。

名月に こころ盗られて 素寒貧 : 一撮