しかし、ボク自身は 鈴木大拙の言葉(だったっけ?)「坐禅中に天にも昇る体験をしても 魔境であるから 一切とりあうな」・・・という教えが
真実であると信じていたから まぁ、不思議な体験をしても 一切とりあわずに来た。
そういったささやかな体験の一つに ある言葉が かってに自分のどこからか 湧き出るというか、生まれ出るというか・・・そんな体験を何回かした。
その頃は 坐禅でも 「数息観」といって 吐く息を ひとーつ、ふた~つ・・・と 10まで数えたら 再び ひとーつ・・と40分、か50分やっていた。
数を数えているだけだから 何かを考えているわけではないのに 突然 ある言葉の意味が わかってくる、というか 「あぁぁ、そうか~・・・」と
納得している自分を観るのだ。 しかも予期していない「言葉」が 湧き出てくるから 驚いた事を よく覚えている。
残念ながら どんな言葉だったか ほとんどわすれてしまったが 1つだけ覚えているのは 「愛」であった。
愛などという言葉は その頃のボクの辞書には 無い、と断言できるほど 無縁の言葉だったので
勝手に湧き出てきて それがわかったような気になっている自分に 本当に驚いた。 確かに、「魔境」だったのだろう。
ただ、先日ツイッターで どなたかが 「言葉から離れた時だけ理解が進む、そうに感じる。狩りで動物を捕まえるように、言葉で真理や状況を捕まえる
その獲得の快感=達成感と、理解するということは、真逆のことのように思う。」・・・と書いてあるのを読んで ボクのこの体験を思い出したのだ。
しかし、誰が考えたのか 或いは発見したのか? 「言葉」とはよく言ったものだ。
真実の言葉は 根から吸収したエッセンスを幹へ そして枝へ伝えて 言の葉となって 「体を表す」ものなのだろうか?
