拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

大愚について

  大愚というと、どこぞの禅僧の名前を浮かべる。
 禅を世界的なものに広めた鈴木大拙も大拙という名を老師からもらった名前だ。

 愚(おろか)から、大愚になると意味の転換という現象が禅の場合、必ずある。

 先日、『愚』ということを、しみじみ考えてみると、禅をやるはるか以前の子供時代から『大愚』をめざしていた事がわかった。
 ボクを教育した環境に例えば『映画』があると思うが、昔の映画はとにかく『勧善懲悪』がはっきりしていて
 悪党は『必ず』金欲にまみれていた・・・そんなのを子供のときゴマンと見せられていたのだから
 ボクは、自然と金にはかかわらない『生き方』というのを映画の善の象徴である主人公達から学んでいたのだろう。
 
 主人公達は自分が不利益になろうともそれを意に介さない様子で、ドンドン前進してゆく。
 これって見方によると『愚か』であり、見方により『大愚』の在り方、生き方であったであろうか。

 こんなのに影響されていたのか『俺は』と、昨日つくづくと思った。
 そりゃ〜『大愚』の域に達すれば、我ながら文句はないのであるが、『小賢しい知恵』を持つ凡夫がちょくちょく
 顔をだしてくるから嫌になっちゃうのだ。まぁ、しかしそれが人間である証拠だろうよ。

 ただ、中学生の時、親友と思っていた友人とひそかに決別を覚悟した時、ボクは『大愚』の道を選択していたのだと思う。
 それが、その道だとも知らず。

 それにしても、今僕らが生きている現代(2016)というのは『大愚』なんていうものは、昔と比較してもなお一層
 理解できない在り方・生き方になってきている気がする。だた、映画の主人公は相変わらず『頑張って』いるが・・・

  そういうことで言えば、先日も我が山本太郎は『一人牛歩』をしたそうであるが、彼は間違いなく『大愚』に値する。

 (翌日) そうそう、大愚といえば、最近、大愚元勝さんという禅僧がYoutubeで悩み相談に答える動画を見た。
一見の価値大あり、おすすめします。