拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

魂の郷愁

  私は今日、小泉八雲著『神々の国の首都』の第一篇『東洋の土を踏んだ日』を読んだ。
  小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンは1890年(明治23)の4月に横浜に到着、8月に島根県松江に中学の英語教師として赴任
  翌年11月に熊本の高等学校へ転任するまでの1年あまりを出雲ですごした。
  私が読んだ第一、二篇は明治時代の横浜周辺について書いているが、あとの11篇は出雲の松江という『神々の国の首都』での
  見聞を記したものである…という。

  私はこの第一篇を読んで、『ああ〜、私は八雲のような眼を持つために、外国まできたのだなぁ・・・』と思ってしまった。

  第一篇『東洋の土を踏んだ日』は横浜にある神社や寺や街並みについての印象を書き連ねているのであるが
  いまの若者風にいうと『日本がめっちゃ気に入った』ぶりが美しい言葉で綴られてるのだ。
  八雲は英語で書いているので、もちろん日本人が翻訳しているが、それが訳が素晴らしいのか、あまりの文章の
  素晴らしさに、訳者が自分の言葉で『盛って』書いている…のではないか?と疑うくらい文章がいい。

  驚いたことに、八雲は日本の文字『漢字+かな』に物凄く惹かれている。
  看板の文字、のれんの文字、職人が来ている法被の背中の文字、手ぬぐい、などなど
  
  八雲:『日本人の頭脳にとって、表意文字は、生命感あふれる一幅の絵なのだ。それは生きて物を言い、身振りまでする。
      そして日本の街は、いたるところに、こうした生きた文字を充満させているのだ。そのような形が街を行く人々
      の目に呼びかけ、色々な語句が、人間の顔なみに、にっこりと笑いかけたり、渋面を作ったりする。
      生命のない符号に等しい、われわれ西洋の文字に比べて、これらの文字がいかなるものであるかを理解できるのは  
      この極東の国で暮らした経験のある人でなければならない。・・・』

  これを、読んだだけで、私は感動してしまった。そしてこれに共感することが出来るのは、
  その生命のない符号の国に長年住んだ経験のある人でなければならない・・・のだと。

        
       『考えるな、感じろ・・・から ➔ 観じろ そして ➔ 漢字ろ!』・・・にまでボクの『日本への郷愁』は昇華したのだった。