『・・・情報理論の教授が2枚の大きな絵を見せた。一枚は精密に描かれた中世の城とそれを取り巻く自然の様子
一枚は広々とした空の写真だった。教授はこの2枚の絵に含まれる情報量はどちらが多いかとたずねた。
正解は後者で、前者の10倍か20倍の情報量があるのだという』・・・これはある小説の一節である。
この話を読んだ時、私は仏教の『空』について 解釈の Vision が広がる思いがした。
普通、空の写真と、風景の精密画があれば当然『情報量』は精密画のほうが断然情報量が多いと思うであろう。
この小説では、正解である『空の写真』には情報量を圧縮することで、複雑な現実を単純なものに見せかけ、
一見なにもないように見せているのだ・・・と説明していた。
教授の最初の設問というのは、日本人にとっては真新しいものではない、ことに気づく。
何故なら、日本文化そのものが真実を表現するために、ドンドン圧縮作業をしてきらからである。
日本文化のすべてがそうしてきた処を意識して来たところに、日本文化の日本文化たる所以があるようだ。
その典型的なものが『俳句』に違いない。そしてその原理の中心には釈迦の『非言語コミュニケーション』の『拈華微笑』
があって、一言も交わさず『微笑み』だけで足りた・・・。
『 やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声 』芭蕉 この17文字で『死生観』の深遠な所を詠っていてる。

仏教の『空』を情報量で考える視点をこれまで、持たなかったが、『AIの時代』ともなれば、そういう視点も必要か。
しかし、それ故の『観自在菩薩』の出現であるわけだし、そうなれば『色即是空、空即是色』で情報量は無限でもあり、単純でもある。