昨日、パレスチナとイスラエル報復合戦の悲しいニュースを眼にした。
世界中の至るところで、こうした愛憎のもつれによる小競り合いが今も行われているのだろう…ことを知らされる。
禅では『悟り』と言って、抽象的な言葉に聞こえるが、わかりやすく言えば『自他不二』で『私は貴方、貴方は私』の『自他の尊厳を敬う』を人生の第一義
として生きる行き方なのである・・・と私は解釈している。
その尊さを、良寛はこう謳っている 『僧はただ、万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける』・・・ (*常不軽菩薩(じょうふぎょうボサツ)
法華経にある前世の釈迦の姿で、誰彼構わず『合掌礼拝』して『あなたは尊い、仏となる人で敬うべき人であります。』と、出会う人ごとに挨拶したという。
コロナ禍で西洋人は、彼らの挨拶である握手や頬にキッスをすることを封印されたいま、マリア様も天使様もしている『合掌』の挨拶を一考すべき時では
ないだろうか。
『合掌』はなにもアジア人特有の挨拶ではない。思わず『感謝』や『祈り』を捧げたい時、両の掌を合わせる事は人間にとって実に『自然』で、まさに『自ずから…』である。
そういう気持ちで私はここヨーロッパの美術館、博物館を訪ねた時、『合掌』がどのように扱われているか研究中である。そんな中こういう像を発見した⬇︎⬇︎
ローザンヌから電車で40分ぐらいの街、ヌシャテル市の美術館で見つけた天使?・・・これほど立派な『合掌』は珍しい!!
西洋画ではマリア様がゆるく合掌している絵をよく見かけるが・・・。
私、馬骨流に言わせると、人間を人間としている『意伝子』のDNA=(Dignity・Nature・Absolute)は『絶対尊厳性』で、生きとし生けるもの全てに備わるもの。
その『意伝子』が自然に表現する非言語コミュニケーションが『合掌』で、本来我々が交わすべき挨拶である。
いまこそ、無条件で無条件の挨拶『合掌』を交わそう、人々よ!