拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

言語道断の坐禅

  じつは今日、ほぼ30年ぶりに地元の道場で『坐禅』してきた。

  ローザンヌの三宝道場を主宰しているスイスの禅僧、道海さんと私達は友人で一緒に食事をする仲であるが

  今日、彼らの師である老僧がフランスから提唱に来る・・・という話を聞いた時、私も是非聞かせてもらいたい…と参加を申し出た。

  提唱の前に45分ほどの坐禅を二回します・・・とのことであったが、まぁ大丈夫であろう・・・(冷汗)と

  自分に言い聞かせて、15人ほどの修行者と一緒に坐らせてもらった。

  

  何十年かぶりの半跏趺坐は、右脚は股関節がおかしいのか痛くて組めず、2度とも左の半跏趺坐であったが

  なんとか坐れたものの実に痛かった。

  で、この痛みに耐える中私が悟ったのは、坐禅は『言語道断』であることを、あらためて知らされたことである。

 

  最近のブログで、私は『禅は悟るための手段である…』と言ったが、撤回することにした。(性格が単純)

  そういう一面も確かにあるが、一回の坐禅はとにかく『言語道断』の威力をもっているということを思い知らされたのだ。

  『瓦をいくら磨いても、鏡にならない・・・』という禅問答があるが、『坐禅』はその問答そのものを粉砕する・・・

 

  最近、私は『悟り』について色々言っているが、この『言語道断』の坐禅で何にも言うことがなくなってしまう感がある。

  提唱をしたフランス人老僧はヨーロッパで禅を広めた弟子丸泰仙師の何人かいる直弟子の一人とのことであるが、

  洒脱で明朗快活な人柄は実に禅僧らしく、魅力のある人柄で、それを直に観れただけで行っただけの価値があった。

        

  今後、悟りだなんだかだ…と言う奴には『坐って出直してこい!』と、いうことにしようと思う。