立膝の菩薩像をたま〜に見かけると、何故か非常に親近感を覚える。
いま、ついカッコつけて『何故か』などと言ってしまったが、じつはその理由を私はハッキリと知っている。
私は他の人といるときなど常に自覚するが、他の人がきちんと椅子にすわっているのに私は長時間じっとしていることができず、
椅子の上で半跏で座ったり、椅子を動かして背もたれの方向を変えて寄りかかる腕を塩梅したりして、普段から行儀が悪いのだ。
だからといって、『立膝の菩薩』が行儀が悪いと言っているわけではなく、90%の仏像が背筋を真っすぐ伸ばして座ったり
立ったりしている仏像のなかで、『立膝の菩薩』はなかなか粋だし、それこそ『どうだ、お茶でも・・・』といった風に観える。
『衆生(しゅじょう)本来仏なり…』で始まる、白隠禅師による『坐禅和讃』も禅寺で修行していた時、耳にタコができるほど
唱えさせられたが、そういったボディブローは爺になるほど効いてくるのか、『水と氷の如くにて、水を離れて氷なく衆生の外に仏なし…』
・・・という教えが有り難く、とにかく『衆生が仏なのだ』と絶対肯定している如く、立膝の菩薩『水月菩薩』は示している様に私には観える。
そもそも大乗仏教が、出家による自力救済を説く初期仏教から派生したときの根本の主張が『衆生本来仏なり…』である事を考えると
菩薩を生んだ大乗仏教は本来的に『在家仏教』を標榜していたわけで、菩薩が如来像などと違って身を飾り付けたり立膝だったり
世俗の我々と変わらないのはそういった思いの現れではないだろうか。

『上求菩提下化衆生』の大乗思想のうえにしっかり、ゆったり坐る水月菩薩・・・愛読した漫画ジョージ秋山の『浮浪雲(はぐれぐも)』のモデルは
この菩薩がモデルであったに違いないと妄想する馬骨である。