拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『佛』の解字

  私は『仏』の『人をして無にする』・・・という馬骨の解釈がすっかり気に入って

  その源字である『佛』をないがしろにしていたが、その解字を調べてみると

  

  『弗』の字が、『絡まるヒモを2本の棒でふりはらう』象形・・・というではないか!その略字が『仏』というのが傑作で意味深だ。

  『佛』という字も仏教がインドから中国に入って来た時に鳩摩羅什など中国の翻訳僧等が苦心の末に発明した文字に違いない。

  だから『佛』・・・という文字にも深〜い、解読されるべき真意が隠されている。『解ける』とも言うしね。

  私には『弗』は『不二』そのものに観える。 二本の棒が何を意味するのか・・・公案にしてもいいね。

 

  昨日、ある本を読んでいて、著者は『臨済禅』と道元の『曹洞禅』の違いを強調されていたが、私はそれに異論を唱える者だ。

  臨済禅師:『赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる者は看よ、看よ。』

  道元禅師:『仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。

        自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、

        自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』

  ・・・と両人は言って、つまるところ『本来の自己』の究明であり、『自他不二』の『不二の法門』への誘いだ。

  『郷里・サトリ』への道は『禅』は王道であるけれど、そこに至る道は無限で一人ひとり『DNA』を覚醒する機縁は必ずある。