拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

禅『?』の刺青

  禅というと『禅問答』・・・を第一に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

 

  私が修行した臨済宗では、修行者に対して『公案』という『問題』が与えられ、老師が『OK』するか

  こちらが『KO』するまで、その『問題』と対面し続けるもので、私に言わせればそれはむしろ、『恒案』と言うべきモノで

  私の心にはその公案が刺青され、『悟る』か、『死ぬか』しなければ消えることはないだろう。

 

  禅の修行では『大信根・大疑団・大勇猛心』が三要諦といわれるが、私の場合、肝心な『大疑団』がしっかり冬眠中であった。

  『禅は疑問のある者からそれを奪い、疑のない者にそれを与える・・・』ものだと、当時の自分を振り返るとそう確信する。

  誰の頭(あるいは心)にも、大疑団はあるのだが、そこに焦点が定まるにはそれなりの『縁』が必要なのだと思う。

 

  居士という立場で、私が対面した公案はたった一つであり、時間も正味4年間ほどの僧堂接心での体験でしかない…のであるが

  それでもこの体験は世間的には『希少体験』であることに違いなく、その意義について真剣に考察するに、

  私ごとき者にも、未だ体験のない人々に何か生きる上での参考になるものがあるように思え、ここに書いている次第だ。

 

  同じ『?』でも、普通の『疑問』と『公案』とでは何が違うかというに、例えば、『24時間x3〜4年』考えても解らない『問い』に

  関して『沈黙を守りながら考え続ける・思い続ける・・・』修行をし、接心という集中修行時には『朝・昼・晩』と自分なりの解答

  を持って老師に対面しなければならないのだ。

  この体験は我が人生にとって最も貴重な体験であった。

  それは一人で出来るものではなく、伝統システムが整っている禅寺でなければなかなか体験は難しいだろう。

 

  特に、インターネットで次から次に人間の興味が移りゆく時代に、

  一つの『?』に一心不乱に集中する『モノ』は『禅』を除いて他にあるだろうか?

 

  人間の『愚かさ』やAIの『賢さ』に、本当に対抗出来る人間の能力の発露はこうした禅の『公案』による

  『?対応』如き『心の初期化と更新』が必要なのではないだろうか・・・。