拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

愛出処(=Identity)

  仏教ってわかりにくい・・・という話から。

 

  私は30歳〜40歳まで、気持ちと期間の濃淡はあったものの居士(一般人)という立場で禅の修行をした。

  で、渡欧して数年後のある日、仕事仲間の相棒(ポルトガル人)に『仏教』ってどんなん?・・・と聞かれて、私は一言も答えられなかった・・・。

 

  私自身は、自分では仏教のど真ん中に10年近くいたつもりであったので、当然よく知っているつもりが、実際には何も知らなかったのだ。

  修行の10年間というのは『無理会(むりえ)の処に向かって』・・・という、ただひたすら『無』になる修行をしていただけであって

  寺では一切、仏教(歴史、教義など)についての講義などなかった。(幸い、禅の修行はそれで良い事は感じていたが)

  

  そのころからかなぁ…仏教は知れば知るほど難しいとわかり、簡単に誰もが理解できる方法は無いものか・・・と考えるようになったのは。

 

  禅初心者の頃読んだ禅書籍に『己事究明』なる言葉を見出し、また私が修行した臨済宗の宗祖『臨済』は我々の赤肉団(しゃくにくだん)つまり身体に

  『一無位の真人』があり、それを『看よ看よ』・・・と弟子を叱咤激励したという話を聞いたこともあって、

  当初より禅は自己の『アイデンティティ』を第一に問題にしている、ということは私自身も直観していた。

 

  一般的に言っても『自分探し』ということが、青春期の人間のテーマになることを思えば、

  仏教の『仏』というのが『真実の自己』に目覚めるという『人間普遍の命題』つまり『Identity・アイデンティティ』の解明とすれば

  仏教は洋の東西を問わず、全人類に『絶対の安心、静寂』へと導くものである・・・というようなことになるのではないか。

 

  そんな事を考えていたら、『アイデンティティ』の日本語版仏語、『愛出処』・・・を思いついた。

  実に『アイデンティティ』こそは『愛の出る処』、つまり『愛出処』で、それが馬骨のいう『郷里サトリ』に至ることで実現するわけだ。

  『アイデンティティ』というのが、単なる出生場所とか、両親の素性とかであれば、別にそれを知ることで自分や誰かが『幸福』になるわけではない。

  仏語の『愛出処・アイデンティティ』は必ずや自他をして幸福にする法であるから『仏法』と言うのだ。

 

       

        そう言えば、映画『マトリクス』も結局『アイデンティティ』がテーマであった・・・『 Wake up ,Neo ....  』

        傑作な公案(禅問答)を一つ・・・『お前の父母が生まれる以前の、お前について何か言ってみろ!』

                                          『父母未生以前の一句』より馬骨意訳