先日、11月半ば、『ローザンヌ国際パーカッション祭り』プログラムの一つ、
義父の若い友人、二人のマリンバ奏者(ジャックとニコラ)が構成する8人グループの演奏会は素晴らしかった。
私は『マリンバ』という木琴のおばけ・・・のような楽器に対して昔から偏見をいだいていた。
子供の頃よく観た、白黒B級日本映画の場面で、モダンな雰囲気をかもし出す時によく使われていた楽器の音色がマリンバだったからだと思う。
なんだか、安っぽい雰囲気に付き物・・・のような観念がずーっと固定していたのだ。
しかし、この演奏会ではそういった偏見が払拭されただけではなく、打楽器という楽器が『命』の本質に迫るモノであることを観せてくれた気がした。
途中休憩を含めて1時間半ほどの演奏会の構成も普通とはチョット違い、
曲と曲の間もトライアングルのような小さな打楽器等を利用したコミカルな演出があったりして、
彼等がいざなう、音の流れにただただ漂うようであった。
『打楽器』というのは、鳴り響く時間が短いところが他の楽器と大いに違う事に改めて驚かされた。
言い方を変えると、『静寂』との『共演』が否応なしであることが『打楽器』の本質のような・・・。
そして彼等の演奏はまさしく、その『静寂』を意識して演奏され、見事な『円相』を描いていたように思う。
最初の一、二曲はプログラムがなかったので曲目は解らないが、素晴らしかった。
で、三曲目?あたりに洋式の大型ドラムを和太鼓のようにして叩打する様は、なかなかの迫力であったが、果たして『Fudo』というタイトルの ↓↓
翌日新聞に写真入りでこれが、『Fodo』であることが判明、つまり『不動』という和太鼓曲(?)であった…(と思う)
この時に、私は『命』という字が『一叩』打であることに閃いた気がする。
宇宙が開闢(かいびゃく)する『一叩』に、我々の心臓の『一叩』が共鳴鼓動している・・・ことに。
叩打といえば、円覚寺居士林で修行していたとき、私は直日(じきじつ)というリーダー役を申しつかり、
坐禅修行の開始時と終了時に居士林の玄関の外に掛かっている『板木』を、木の金槌(かなずち)で決められたリズムで叩いた事を懐かしく思い出す。
その板木には、『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』・・・と書かれ、その真中を叩くと、一音、一音が円覚寺の森に浸透するようだった・・・。