拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

Final『?』と首

先日、 2024年1月24日のブログ記事〜Final『?』を書いたが、補足の要を感じる。

 

【洋の東西を問わず、人間は『?』に生まれ、『?』に死す・・・生き物ではないかと思う。】

 

・・・確かにそうだと思うが、水の世界に生まれた魚が『水』を意識しないように、人間も案外『?』に気づかな場合が多いのでは。

 

思えば、私自身がそうで、それに気づかせてくれたのが『禅』であった。

そもそもFinal『?』の在ることを知らずに、Final『答』を見出すことはできない。

 

『?』を巡って私はこんな事を考えた。        

西洋『?』〜 キリスト教〜 科学(量子力学) 〜 『AI』

東洋『?』〜  仏教  〜 禅(瞑想+公案)〜 『道』    

 

・・・と書いて、あたかも『AI』が、Final『?』にFinal『答』を出すかのように書いたが、

『AI』の『?』には『首』が無いので、人間の求めるFinal『答』は見出すことはできない。

 

その意味で東洋の『?』に『道』というFinal『答』を見出し、ちゃんと『首』を据えているところが素晴らしい・・・と強調したいのだ。

 

『首』という字の持つ意味合いが、日本人であれば単に身体的な部位を表すだけでは無いことを知っている。

その意味でFinal『?』を解く、東洋の『道』に『首』の存在意義は非常に重要かつ微妙といえる。

 

            

       老子曰く、『 道の道とす可きは常の道に非ず 』・・・

 

 

 

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