先日、『太鼓芸能集団鼓童』を観たせいであろう、日本文化の要(かなめ)となる『道』についてちょっと真剣に考察(?)
普段、『道』文化のある我が国日本を様々な形で賞賛しながら、案外それについてはっきりした定義を知っているようで、知らないかも・・・。
『道』に関して、馬骨自身を『還暦スキャン』してみると、中学の3年間『柔道』をクラブ活動でやったという経歴があるものの
指導者もろくに居ないなか、見様見真似の『ママゴト』レベルで、間違っても『道』などと呼べるものではなかった。
29歳で始めた鍼灸専門学校を通して、『鍼道』を提唱する観風先生に個人的に弟子入りすることで、先生自身禅者であったこともあり
鍼灸治療の実技、坐禅、筆禅道、鍼灸における心構え・・・などを、私にとっては大変古風な雰囲気のなかで学ばせて頂いたが、
結局は『鍼道』よりは『禅道』にハマってしまった私が歩いた『道』というのは、禅修行を通しての『仏道』ということになる。
ただそれは、今だから言えるのであって当時は『道』とも『何とも』思っていなかった・・・というのが正直な心境。
(円覚寺)居士林で行われる禅修行について行くことで精一杯で、他には何も考えられなかったし、また何も考えさせないのが修行でもあったか。
そしてその点に関しては、足掛け10年間に渡った修行の間、終始変わることはなく、多分還暦過ぎたあたりからようやく当時のことを
あれこれ吟味するようになった気がする。
『道』に関して、『心技体』という言葉も意味も知っていたが、『剣道』とか『茶道』とか『太極拳』いうものならばとにかく、
『坐』を主体にする禅修行において『技』・・・というのが、当時の私には『ピン!』とこなかったし、あまりそれについて考えもしなかった。
しかし、今であれば『坐禅』は生活におけるあらゆる場面に『技』とも思わずにする行為・・・の境涯にまで磨き上げられるべき『技』なのだ・・・と思う。
そういった『道』について、見事に書き表したのが、オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』がある。
『道』の本来の目的は、『弓道』であれば的に当てることではなく、『剣道』で相手から一本をとることではなく、『道』における『技』自体を極める・・・
ことが目的ではない・・・という処にある事が面白く、また難しい処でもあり、指導者のレベルが千差万別である理由ではないだろうか。
私に言わせれば、此岸から彼岸へ渡り、『色即是空即是色』という『抹香臭い』とは言わせない『超時空=直時空』の境涯なのだと思う。
太極拳をしていると、『波』をイメージするが、あらゆる『心技体』に『丹田』が薬味として効いていることを忘れてはならないの図