今年になって世の中がまったく良くなりそうもない気配のなか、馬鹿な私も気が付いたような気がする。
『悟り』という『(自他)不二の法門』・・・のうようなところに、意識が行かない人間が増え、権力至上主義のような人間ばかりが
組織の指導的立場についた場合、その組織の行く末は決して幸せなものではないだろう・・・。
鈴木大拙は、明治24(1891)年、21歳のとき円覚寺の今北洪川老師について禅の修行を始めた。
以来、昭和41(1966)年、96歳で亡くなるまで、ずーっと『禅』を説いた。
その心は??・・・『回想・鈴木大拙』という本にこんな彼の言葉がある。
『 広める、広めぬ、じゃないんだな。皆が知ってなくちゃならぬ、というわけだ。
広める、広めぬというと、なにか人為的でだな、厭なものを教える、ということになるかも知れぬけど、そうじゃなくしてだね
そういうものを、みな世間の人が知ってなくちゃならぬ。 それには宝の持ち腐れじゃ困る、ということになりますな。』 鈴木大拙
禅の修行で彼が掴んだものは、この『宝』であって、それを人々に伝えたい一心で、それこそなりふり構わず96年の生涯を『禅』に明け暮れたのではなかったか。
私なんかは、悟ってもいないのに海外に飛び出したオッチョコチョイで、その自覚を海外で実感・・・還暦すぎるまで『禅』のことをほとんど話してこなかったが
もう70も過ぎて、カッコつけて『禅』を勿体ぶって秘めている場合ではない気がしている。自分なりに解る範囲で『悟り』の大切さを伝えてゆかなければ
いつコロリと逝くか分からない年齢で、それこそ大拙のように『なりふり構わず』世界の中心で、『禅』を叫ぶ・・・ぐらいの気持ちいて、
ようやく一人ぐらいにはその『宝』の大切さが伝わる・・・のだろうか。
ドイツ人女性ガブリエルの、詩人ランボー『酔いどれ船』をテーマにした絵・・・彼女も禅者だった。(私の書斎"瑞風船”に掛けてある)