『合掌』の真義の解明は『東洋自分なり研究所』の喫緊(きっきん)の課題であった・・・。
鍼灸の仲間と禅寺へ月一回ぐらいで始めた坐禅修行であるから私は28か29歳(?)、以来『合掌』ではじまり『合掌』で終わる仏道修行の
『合掌』であるが、いったいその真義は?・・・問もせず、問われもせず『寺』だから『仏教』だから、『合掌』は当然・・・ということできた。
しかも、仏教の指導的立場の人からも『合掌』について、一言もなかったし、それについて書いてある仏教書も見当たらなかった。
その意味では『合掌』も公案(禅問答)として自分で考察せよ・・・との教えとみなせば良いのであろうか?
仏教の象徴ともいえる『合掌』・・・言葉で言い表せない状態を示していると思われるが、そこをあえて言えば『感謝』、ということになるだろうか。
しかし、そこにはいちいち『感謝』する対象理由が言挙げされる次元の『感謝』ではないことはわかっていた・・・。
ある日、『感謝』という言葉が『観者』と重ね合わせであることに気づいた時、下の二句を思い浮かべていた。
『 何事の おあしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる 』 西行
『 花も美しい 月も美しい それに気づく 心が美しい 』 足立慈雲老師
このどちらの句にも、『気づき』・『観者』・『感謝』・・・があることが解り、そこには自然に『合掌』が行われたことがわかるのだ。
つまり、『悟り』とは『観者』に覚醒することで、『観』の重要であることは古来より仏教は説いてきたが、現在それは『量子力学』によって注目されている。
『郷里・サトリ』を求めて三千里の善財童子、その象徴は『合掌』・・・の図