拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

数式 <漢式 = 間式

  先日、衆議院総選挙結果が出たが、その選挙期間中、或いはそれ以前より、れいわ新選組・山本太郎の街宣にて、大モニターに示される

  様々な経済的統計や指数・・・に私は大いに関心し、その事をブログに書いた 2024年10月21日のブログ記事〜天上天下『唯我一票』

 

  そこに『『デジタルネイチャー』とは落合陽一氏の提唱するものであるが、政治の場にそれを一番最初に持ち込んだのは意外にも『山本太郎』であった

  ・・・とまでは書いたが、なんとなく肝心な事がスッキリ言えてない気がしていたところ、昨日

  数学にめっぽう強い我がGooブロガーが『数学』について書いている記事と出会い、そこに『政治家は嘘をつくが、数字は嘘をつかない』の

  一文を見出し、ああっ、そう、それがが言いたかったのょ・・・と、溜飲を下げる思いをしたわけである。

 

  このブロガーによると、現代の豊かな生活が成り立たせるのに、『数学』の存在がなければ…実現していない・・・というのを読んで

  確かに、確かに、人類における進歩の影には必ず『数式』があるのは確かで、私のようにかなり低レベルの算数止まりの人間には

  さっぱりその仕組というものがわからないものの、コンピューターとかスマートフォン等をそれなりのレベルで使うことが出来るのも

  モトを辿れば、『数学』のお陰であるわけだ。

 

  しかし、人生において、数式では解けない問題があるわけで、その辺について書いたのが 2024年9月9日のブログ記事〜『数式』対『漢式』

  だったような気がするが、その時はあたかも『数式』と『漢式』が対等の如く『数式 対 漢式』と書いてしまったが

  私的には、もちろん『漢式>数式』で『数式』は人間にとってあくまで『道具』であり、『漢式』=『間式』でまさに人が人『間』たる由縁と

  なる、大いなる理由でもあると思う。

 

  『数式』そのものに『慈悲』心の働きというものはなく、佛性とともに展開した『漢式』は、『慈悲』心の働きなくしてはあり得ないのだ。

 

           

            洞窟の最奥の場所は上部から滝上に水が落下・・・その下の池状に人魚の白骨が!の図

  昨日、電車で一時間のST-Maurisサン・モーリスという所にでかけ、山の上にある有名な洞窟を初めて訪れた。

  約500mほどある真っ暗な洞窟の途中には明日の『ハロウィン』を祝うつもりか?アチラコチラに骸骨やらが置いてあって悪趣味。

  帰りに洞窟の暗闇を曲がるところで、蒼白の老婆が一人立っていて、我が相方は悲鳴〜をあげた・・・が、その悲鳴に老婆は恐怖していた…ようだった。