目下、奈良旅行の写真の整理をしているところだが、その中に思いっ切り爺(ジジイ)然している自分の姿に呆れた写真があった。
約一ヶ月の奈良滞在中、相方の従姉妹の息子夫婦とその赤ちゃんが我々が借りているアパートに、三泊四日の日程で泊りがけで遠方から来てくれた。
子供も孫もいない我々夫婦にとって、本当に身近に『子のいる若夫婦』の観察が実現したわけだが、滞在中に2歳の誕生日を迎えた坊やというか
赤ちゃん(?)が案外に私になついて、愛嬌をふりまくものだから、自然私は相好を崩す・・・という自分でも意外な醜態をさらす結果になってしまった。
他人の赤ちゃんでも『デレ〜』とするのであるから、これが自分の子であったら・・・なんて妄想を働かせたら、『玉のような赤ちゃん』という言葉を
想起したが、それについては『悟り』の当体としての『玉のような赤ちゃん』について書いた記事があった。 2023・10・26『 色界』の争い
人間が、自分の命をかえりみずに必死に守る『赤ちゃん』・・・ゆえに『玉のような赤ちゃん』・・・と連想したとき
今回、禅寺・東福寺で観た天井画の『龍』が『玉』を持っている絵を思い出した。
携帯で撮った写真ながら、『龍と玉』は案外な迫力で写っていた・・・(京都・東福寺)
『龍と玉』・・・これって考えるまでもなく、おなじみの『ドラゴンボール』ということになり、ぐっと身近になったが
寺の天井画の『龍』が手にする『玉』・・・というぐらいだから、『悟り』であるに違いないが、
そうしてみると『玉のような赤ちゃん』というのは、『赤ちゃん=玉=悟り』であるに違いない。 だから命がけで親は守るのだ…としてみると
仏教の宝=悟り・・・というのが、ググーッと身近になるのが不思議だが、それに気付いてない人間どもの存在の方が不思議かも・・・。
『玉のような赤ちゃん』に相好を崩す馬骨かな・・・図