拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

拈華微笑の完結

  ブログタイトルを『拈華微笑』で書き始めたのは、記録によると今から16年前の2009年11月となってる。

 

  しかし、どうしてブログタイトルを『拈華微笑』・・・としたのか? はっきり理由が解らずにいた。

  ブログを書き始めるにあたり、タイトルを決めなければならず、切羽詰まったなかで清水の舞台から飛び降りる…ような感じて決めたような気がする。

  というのも、自分でもこのタイトルの『拈華微笑』の真意がどのあたりにあるのか解らないにもかかわらず、『カッコいい!』感が唯一の決め手であったからだ。

 

  『拈華微笑』(ネンゲミショウ)という言葉は、禅寺では禅問答なる『公案』にもなっている、釈迦と弟子の短いやり取り、いきさつを問題としたもので

  一般の人で、この話『拈華微笑』を知っている人は、とても少ない。  

  私自身もこのタイトルで16年間ブログを書いてきたなか、何度かこのテーマを掘り下げようとしたのか? 

  ブログに書いているが、これはその一例・・・ 2011年6月14日のブログ記事〜拈華微笑

 

  この短い物語には、まず『師と弟子』の関係が表されているだろう。

  その『師と弟子』の関係を骨子として、伝統的禅寺・・・ついては『道文化』の礎となっているのではないだろうか。

  

  私も最初、この『拈華微笑』を『師と弟子』の関係のなかだけで観てきた・・・。

  しかし、今回奈良や京都で『弥勒菩薩』像と対面することで、『拈華』する『師』と『微笑』する『弟子』というのが

  じつは、一体であることを教えてくれたが、今思うと、私の実際の『師』、円覚寺の老師が私に伝えんとしたのも『その事』であったと思う。

 

  日本には伝統文化として、様々な『道』があり、それが『尊重』されている一面がまだまだある事・・・そこにもっと沢山の人が注目すべきだと思う。

 

  いま世間では、『パワハラ』ということが問題視され、『師と弟子』の伝統的関係性も変なところで誤解されることもある

と思うが

  すべからく『道』というものの背後にはその人間性を昇華するための『慈悲心』があり、その『慈悲心』の欠如こそがすべての行為の問題点なのだと思う。

 

  実社会の中で、素晴らしい『師』との出会い・・・というのはそう簡単なことではない、とも言え、案外身近な友人に優れた人がいたりして…

 

        

           佛(菩薩)というものも、時空を超えた形で 私やあなたを『微笑み』で激励している…