一昨日、お医者さんから頂いた、フィジオ券(マッサージを9回)で、30分弱のマッサージを若いポルトガル人女性のセラピストから受けた際、翌日から始まる4連休の『復活祭』の話になり、『キリストの復活』という宗教行事に対する彼女の個人的見解を聞いてみた・・・。
彼女自身は子供の頃、洗礼を受けたもののそれ以上でも以下でもなく、大半の若者と同じように『宗教(キリスト教)』に関心が無い・・・と、私にすまなそうな顔で言った。
まぁ、それは予想していた答えで、逆に信心深い人であったら大いに驚いていただろう。
『宗教離れ』は洋の東西に限らずまさにグローバル化している現象と言えるかもしれない。
それにも関わらず、クリスマスに匹敵するか、或いはそれ以上に重要な宗教行事として、祝日には故郷に帰っては家族との絆を深める日として大切にされている『復活祭』ではある。
私にしても、ヨーロッパに住んで三十数年・・・、自分の『仏性探求』が深まるに比例して他宗教とはいえ、『キリストの復活』あっての"Religion"・・・それが "(神と民とが)再び結ばれる” という意味合いの大切さ、重要さをひしひしと感じ取るようになった。
その意味では釈尊の『悟り』というのが、自我の中に横たわる此岸と彼岸の距離を詰めきり、渡りきった状態を『Religion=再結』とすれば、それはまた『復活』とも言えなくもない。
『 幼子が しだい次第に 知恵付きて 仏に遠く なるぞ悲しき 』・・・この短歌というのは、人生の半分を詠んだだけの歌で、その先には一周して仏に再び行き着く可能性を秘めているのだと思う。
キリスト教教徒にとって、『キリストの復活』は奇跡であり、また奇跡ではない…
同じように、釈尊の『悟り』は奇跡であり、また奇跡ではない。
卵は復活祭の象徴、『天上天下唯我独尊』宣言もまた人間性の仏性への復活の象徴