昨日のブログ記事、縁為(エンタメ)にインスパイアされて・・・というわけではなく、ずーっと前から、『人生はサトリ・ゲーム』じゃないか?・・・とは思っていた。
禅の『悟り』に至るまでの行程を絵図にした有名な『十牛図』がある。
これって、↑↑ どう見たってファンタジー・アドヴェンチャー・ゲームと言う『人生ゲーム』じゃないだろうか・・・。って思うんだけど?
一般的に『悟り』…というと、苦しい修行のすえ何年もかかってようやっと覚醒する・・・みたいな感じで捉えられ、自分とはまったく関わりがなく、『悟り』という言葉を発するのも憚られる・・・というのが正直なところだろうと思う。
でも、私は『悟り』はじつは『差取り』というニュアンスで捉える事ができる事象なのだと思っている。これまでも何度も言ってきたように、『赤ん坊』は『悟り状態』そのもので
『幼子が しだい次第に 知恵つきて 仏に遠く なるぞ悲しき』という短歌が示すように
『赤ん坊=仏』であるとした時、生まれた時は誰もが一時期は『仏=0』であったわけで、その後知恵がついて仏(0)ではなくなったわけだから、0から付加した数値ぶんを『差取り』することで、『仏=0』と『悟り』に至る・・・そもそも、釈尊は誰もが『仏性』を持っていると宣言しているのだから間違いないく、誰も『無いものを悟れ…』という話ではないのだ。
生きていく過程で、付加の数値の大きい人がその『差取り』をするのは、そりゃ大変であることは予想できる。しかし、幼少時から付加する数値が小さければ、案外『HIMARI』(天才バイオリニスト)さんのような幼い頃から才能を発揮することが出来るのではないだろうか。
『サトリ・ゲーム』には『悟り』と『差取り』の二つのアプローチ視点があり、いずれにしても仏は『無い物ねだり』・・・をしているわけではない、ことは肝に銘じておくべきだろう。
この記事が心に響いたら、応援クリックをお願いします!