この新春2〜3月、寒さに震えながら奈良の古寺を巡り、実際に私のこの眼で仏像を観たことで確認できたことは、仏像の『鑑賞』というのが、『観照』に至るには、坐禅の修行なしにはなかなか難しいのでは・・・ということであった。
高校の修学旅行で、北海道の片田舎"北見"から京都、奈良を回って初めて仏像を観たはずだが不思議なくらい何も覚えていない。今考えると修学旅行で見学するメインメニューは寺院めぐりであったが、その心得的な説明というのが先生等から一切なかった・・・事は残念であるが、それは現在に至っても同様というか、昔の方がまだましなくらいではないかと妄想する。
私は29歳のとき、坐禅を始めたが、まさかそれで仏像の『観照』眼が養われるとは思ってもみなかったが、よく考えてみれば『仏の坐像』は『坐禅』であるのだから…当然とも言える。
私の禅の修行もいくらか深まった時、観音菩薩にかぎらず、すべての仏(像)は『観音』という次元に生きている人々のことを意味している…と私は観じ取れるようになり、仏像をそのように『観照』するようになった。
仏像はすべからく観『音』を発しながら、それを『観』じている。それを観る我々もその『音』に調音することを求められているのだ。
私の『考えるな、感じろ!』は、『考えるな、観じろ!』になり、さらに『漢字ろ!』となって、それは『佛語・漢字方程式』という面白いことになった。
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