ブログを2009年頃から始めたとして、今年で16年を迎えるわけで、このブログ人生をかえりみるに、ブログだけにブラブラならぬブロブロと、焦点の定まらぬ行き当たりばったりの記事を書き連ねてきたわけだ。
そのブログも『goo』から『はてな』にこの4月から引越してきたのを機に、それこそ『はてな?』と思案してみるに、『東洋自分なり研究所』での研究成果…というものをそろそろ昔の『辻説法』如く、インターネットという十字街頭に立って『自分なりの説法』を行い、世に問う時期到来と捉え、じゃっかん『蝦蟇(ガマ)の油売り』如き、我ながら誠にいい加減な処に『後ろめたい』気分はあるものの、『今やらなければ何時やる…』という内声に押され十字街頭に立つべく覚悟を決めたわけである。
私が世の人々に売らんとセールスするは一応『道』なのであるが、老子いわく『道の道とすべきは、常の道に非ず』・・・などと、分けのわからんことを宣ったりするが、そこはそれ馬骨的、適当ないい加減さで『自分なりに意訳』した馬骨節説法ということになりそうだ。
私のブログタイトルの下の一節(サブタイトル)は、『自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然』とし、私の言いたいことの骨子であるが、どうであろう?
『幼子が しだい次第に 知恵つきて 仏にと遠くなるぞ 悲しき…』これって、誰もが通る人生の一過程であり、そう悲しむことのない、人間であれば『自己保存』の第一段階みたいなもので、これを『自我』というのだと思うが、これをも『道』半ばとすれば、いつかそれでは納得いかない果に行き着き、そこを『此岸』と認識した時はじめて『彼岸』の思いに行き当たるわけで、ここからがいよいよ『道の道とすべきは、常の道に非ず』的な難所に出会うわけだ。
その難所を乗り越える術を伝授する場が私の考える『道場』ということになろうか。
いわゆる一般の教育では知恵をつけるのだが、それでは『仏に遠くなる』わけで、そこで『無』の教育というか鍛錬というか修行というか…教育とは真反対の『無理会(むりえ)の処に向って…』というお経の一節にある『無』の修行のあることを力説する『禅』というものが世界広しといえども日本では『道の文化』として根底となしている・・・ことを知るべし。
ざっと世を見渡すに、知恵をつけた教養人はいても、『無』教養人は少なく、それがために日本などでは『失われた30年』などと言われ政治経済の著しい凋落(ちょうらく)の憂き目をみているように思う。そしてそれは『AI』という世界的時流で一層拍車がかかるのだ。
さあさ、寄ってらっしゃい、観てらっしゃい!人間の『首』だよ、どこに向けてひっさげるか、それが問題だ!!
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