『馬骨解字』・・・いよいよ来るところまで来てしまった感満載…。
本来『解字』とは〜
『一つの漢字がどういう構成要素(部首や形)から成り立っていて、そこにどんな意味や音が込められているのかを歴史的、学術的に文字の起源・変遷・構造について分析・説明するもの。』
であるが、『佛語』に関する馬骨解字は、漢字在菩薩のお示しによる『観自在』な解釈による現代的、日常的感覚で誰もが簡単に理解することができる解字・・・となっている。
そこで、今日は佛語としての『時』の字について解字してみたい。
まず、『日』偏であるが、この『日』偏は私の佛語・漢字方程式の基礎中の基礎漢字となっている。それを説明するために一つの逸話を紹介しなければならない。
円覚寺で禅修行中、老師の言葉で忘れられない言葉がある。毎月行われる一週間の接心の初日に毎回全員で写真を撮るのであるが、ある時、老師は『禅をやるものは、口元をだらしなく、だらっとするものじゃない、禅宗は昔は達磨宗といって、ダルマさんのように奥歯をしっかり噛んで一文字にぐっと『へ』の字に引き締めてなければいかん…』と厳しく戒められたから、私はもちろん雲水たちも皆、口元を一文字に引き締めて写っている。その戒めは禅をする者にとって大切だ・・・という象徴的教えとして、決して忘れられないものとなっていた。
そのような考えをもっていたから、漢字に興味を持ち始めた時、『問→間』という字に出会った時、『問』の口が一文字に閉じた形が『日』という意味合いになり、それは私にとって坐禅の瞑想を意味していた。そしてその『日』は『曰く言い難い』ことを『日う』ことであり、そこに『曰く』と『日が照るの日』の字が重ね合わせであることを私は発見した。
そうしてみると、『観音』の『音』にも、『般若の智慧』の『智』にも『日』という文字が大切な『意味合い』を支えていることが『佛語』として成立している事が理解できる。
その『日』と『寺』の組み合わせが、『時間』を意味する『時』だなんで、これは偶然ではないだろう・・・。
馬骨解字でいうと、瞑想の『日+寺』=坐禅・・・を表し
『一切皆苦』の根本原因である『諸行無常』とはまさに、『時間』のことであり、その解決法である『諸法無我』もまた、同じ字『時』なのだ。
つまり、『時』の字には色界の『時(間)』と空界の『時(無時間)』が重ね合わせになっていることを、この一字『時』が表しているのだ・・・。
そこの処を、漢字を日常的に使っている日本人は、先がけて理解すべきでは・・・『時』!
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