拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

馬骨・佛語解字 〜 『私』

 今日の私の、佛語『私』解字解釈はたぶん前代未聞の適当・・・という意味の見事な『重ね合わせ』に世の人々は、驚くか、呆れるかするだろう… 。

 

5月13日に、私の『誕生日プレゼント』…という一応の名目で、一泊二日の小旅行にフランスのMilhouseという小さな街に、相方と電車で3時間半で行ってきました。この日はどうやら満月だったようで、枕も変わったせいもあってか、よく眠れなかったのだが、眠れない頭でボーッと考えていたのが、何故か『私』の字についてであった。

そして、思いもしなかった馬骨解字が出来上がって、なんでもっと早く思いつかなかったのか?という思いと、我ながら『エーッ!』というアイディアに興奮したこともあって、朝もまだ明けぬホテルのベッドに座り、相方を起こさないようにフトンで携帯の光を隠しながら考えをメモった。

私の『私』解字解釈がデタラメで適当なのか? 或いは『私』という文字をデザインした人は私のような解字解釈の可能性を製作時に『呪文字』として織り込んだのか?・・・

 

佛語としての『私』の字の馬骨解字であるが、

『禾偏』の『ノ』というのが、私がもうずーっと以前からの持論で、『自』や『白』、『覚』『愛』などなど、漢字の上部にくる『ノ』『ツ』・・・というのは、私見ですが、『意思』や『意識』を表していると観てました。

特に『自』という字はネット上では『自』で『ノ』という風に見えないくらい短い線ですが、私が自筆で書く時は『自』にしろ『白』にせよ明らかに『ノ』と書いてから『目』、或いは『曰』を書いたもので、『目』+(意識である)『ノ』=『自』であると私は考えていました。

で、『禾偏』の『木』の上の『ノ』・・・というのは、『木に意識を向ける=禾』で、その横に仏教で言うところの『無であるム』が来て、『私』と書いて、『仏』と同義語と私は解字解釈します。

実は、そう解釈する理由というのが、私に在ると考えるのは、私が老師から頂いた禅の公案というのが『庭前の柏樹子(はくじゅし)』だったのです。

 

どういう公案かというと

【 趙州、因みに僧問う、『如何なるか是れ祖師西来意』
  州云く、『庭前の柏樹子』】

 

(意味は・・・) 趙州和尚に、ある僧が質問した。

達磨大師がはるばる西の国インドから来た・・・というのはどういう意味でしょうかと。

これは、(達磨大師が、インドから中国に禅を伝えた【禅】とはどのような教えでしょうか?)という意味の問いです。

それに対して趙州和尚は、『庭の柏の木だ』と答えた・・・というのです。

 

公案は『禅問答』というだけあって、じつに『取り付く島もない』話で、私も参りました。

この公案一本に私は今持って対面しているのですが、これって『木に意識を向けている状態=禾偏(のぎへん)』で、ひたすら『無=ム』の『無理会の処に向って、究め来たり究め去るべし、光陰矢の如し謹んで雑用心することなかれ、看取せよ、看取せよ・・・(興禅大燈国師遺戎(経)』ということになり、それが『私』という文字の真意なのでしょう。

       

このブログを書いている時に、ラジオ代わりに古舘伊知郎さんのYoutube動画を聞いていましたが、ゲストの笑い飯・哲夫さんと古館さんの仏教対談の中で、哲夫さんが『たぶんお釈迦さんの座った時の心境って、木と一体化しようとしたんじゃないかなって・・・』と言ったのには驚いた!・・・それって今から私が書こうとしていたことだし、まさに『庭前の柏樹子』そのもののことだったので・・・。彼ならば馬骨の『私』解字が解るであろう。

   

   

   『自分と樹が一体化した時、『ム=無』が成就し、仏性の備わる『私』が観える

 

 

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