拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

衆生本来仏なり・・・

【衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし…】

これは『白隠禅師坐禅和讃』の出始めの一節です。

思えば、今からちょうど43年前に友人と二人で鎌倉の円覚寺居士林の学生摂心に参加、その時頂いた『修養聖典』の中に、『白隠禅師坐禅和讃』というお経があり、その後、居士林のメンバーになって、毎週の土日坐禅会、学生摂心をする中で、それこそ耳にタコができるほど読まされたお経の一つでした。

そもそも、禅が『不不立文字、教外別伝』を掲げているということすらも知らずにこれらのお経を皆と唱和して読んだものです。

居士林は、一般の在家の修行者を対象とした修行ということで、お経もシンプルなお経をいくつか読むにとどまり、しかもその内容について解説するとかいうようなこともなく、読みっぱなしでしたが、それにしても、『四弘誓願文』『般若心経』そしてこの『白隠禅師坐禅和讃』の三つのお経は何に付け読んでいた印象があります。

ただ、お経を読んだと言っても、それが自分が行っている『禅』と何の関わりがあるのかはさっぱり解らないで読んでいたのですが、それがボディブローのようにじわじわとその効果が現れてきたのは、おそらくだいぶ後になってからだと思います。

しかし、『衆生本来仏なり・・・』という、一節だけは考える余地がないほど、いつの間にか自明の理として私は受け止めていたようで、修行の指針として私をしっかり支えていました。

 

そのせいでしょうか、Youtube動画などで、仏教系やスピリチュアル系の話を聞くと何やら随分難しい言葉を駆使して、かえって本質から遠のいている感じをいつも受けるのです。

 

禅というと、道元禅師、それと一休禅師、良寛さん、そして4番目にようやく白隠禅師ぐらいな感じで、白隠禅師はポピュラー度が低い感じがしますが、禅をこれほどわかりやすい言葉でお経になさったお坊さんは彼をおいていない事を思うと、さすが、『臨済宗中興の祖』と言われる白隠禅師(1686〜1769)、彼の禅史における存在は一段と輝いたものであったと思う。

 

後ろの看板に(昭和57年度・冬季学生大摂心)と書かれ、1982年なので私は30歳であった。

『衆生本来仏なり』と言い、『誰もが仏性を持っている…』という宣言が『大乗仏教』であったであろう。そしてそれが、どこの馬の骨かわからない私にまでも届けられたわけだ・・・。

 

 

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