1999年に公開された映画『マトリックス』は世界中を巻き込んで注目を集めたが、私、馬骨も当時47歳でこの映画に夢中になった一人だ。
39歳で禅修行を打ち切り、渡欧した馬骨にとってこの映画は、他の人以上に何か特別な問題を私に投げかけているような気がして、いまの73歳のジジイになるまでこだわり続けてきた。
それが、先日ブログ(下記)に『時』の馬骨解字を発表することで、自分の中で発酵し続けていた『マトリックス問題』が何であったのか、その答えが解明に至ったように思う。
結論から言うと、『時』という文字そのものが、『禅』を表現し、そしてその『禅』が扱う究極の問題が『時』・・・であったという事なのだ。
時間の『時』という文字に『寺』・・・の字が編集されていることに、注目した人間は馬骨以前にいただろうか? それはともかく、時間の『時』はじつは『禅寺』によって生産されていたのだ。
そしてその『時』というのは、『生死』をはじめ、『有無』とか『光と闇』など、あらゆる二元性を含みながら『和合』させる『場』であり『次元』で、人間の『間』の機能である。
映画『マトリックス』の中で描かれる「世界」は、人間の五感と意識が、AIによって作られた仮想現実に接続され、「時間」もそこでは、プログラムされた“仮想の流れ”、つまり登場人物たちは『時間』によって縛られているけれども、それは「偽の時間」。
主人公ネオが最後に「覚醒」する瞬間、それはまさに時間の流れが崩壊し、“今”という無時間的な場が開く、まさに禅でいう「無念・無時・無我」の瞬間であった。
禅における「瞑想(坐禅)」は、
- 思考の流れを止める
- 記憶でも予定でもない「今、ここ」に深く沈む
- そのときにだけ、“本当の時間”=『時』が立ち現れたのだ。
それって、じつは私達現実の世界において、『空』を知らずに『色界』に生きる私達の事ではないだろうか・・・。
私の眠そうな坐相では絵にならずに恐縮だが、まぁ、何もかもバーチャルだから・・・
『 動く刻(とき) 止まりし瞬(とき)に 目覚めれば 七十三の ジジイ現前 』馬骨
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