昨年、私は下記のようなブログ記事を書いていて、『何故、私は自撮するのか?』と自問自答していた。
二十歳の頃、電車の窓から『芦屋芸術学院-写真科』の看板を見た時、それまで自分の将来についてアレコレ迷っていた私が『これだ!…』と、進路を即決した事を今思い出すと、それまで自分自身が『写真』に興味を抱いていた事も知らなかったのであるから驚いたが、それって今思うと『不立文字』への道の始まりであった。
世の中には、『学問』というものがあって、立身出世には欠かせないものであるが、一方東洋には『覚問』という、あまり一般的にはかえりみられない『道』があって、私は無意識のうちにこの『覚問』の方を選ぶ人生であったようだ。
『学問』も深いが、『覚問』はもっと深い・・・、こちらにハマった場合、ある程度納得がいくレベルになるまで、時間は際限もなくかかり、結局至ったとしても『別事なし…』という処に落着するのみ。
ただ、この境地に至った連中をみるに、『個性』の開花・・・という点では半端なく、いかなる時代を経ようとも、人生を大いに謳歌して散っていくもののようだ。
であるならば、『Ai』が隆盛なりし昨今、『学問』も結構だが、『覚問』こそは人間に求められる究極なのかもしれない。
この写真は私が23、4歳の頃、私の写真を見た篠山紀信に、『あなたジャンキー(薬づけ)じゃないの…』って言われたが、確かに眼がイッているゎ・・・。
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