拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『 Ai 対 禅 』

先日73歳になり、2017年に定年退職してから8年目を迎えた。

このご時世に、ヨーロッパはスイスでジジイ世代を迎えたのだから、自然、時間の大半は日本のYoutube動画などを見て過ごしている・・・。

 

そうして思うのは、『Ai』が恐ろしいスピードで進歩している様で、その方面の専門家等が毎日のように、眼を丸くして『Ai』の可能性の拡大について説明している…、かと思うと

その一方で、何時まで続くのか?と思うような『兵庫県知事』の問題や、日本の政界の動向、そして世界中を巻き込んで奔放するトランプ政権のニユースなどを観るにつけ、『人間性』の著しい劣化を観せられるようで、『Ai』との対比を考えると、頭が混乱して何がなんだかさっぱり解らなくなり、空恐ろしい気持ちになる・・・。

 

多分、これまでいつの時代の人達もつい『世も末だなぁ〜』と、このセリフをいい続けてきたのであろうが、なんだか、いまの世ほど切実であっただろうか?と思うほど、『ヤバい』状況のような気がするのは、私がジジイになった、歳のせいであろうか?

 

その意味では、仏教が教える『諸行無常』・・・というのは大正解で、

であれば、次の『諸法無我』なんていうのも、大正解であるのだろうけれども

その『諸法無我』に向かって、世の中をなんとかしょう・・・などと考える人の割合などを思うと、それこそ、『世界の片隅で無我を叫ぶ』・・・というような図が見えてくる。

      

私は今日のブログタイトルを『Ai 対 禅』としたが、その『対』の意味するところは

松岡正剛氏がいうところの、『デュアル』と『リバース』で、対立しているようで『一対』として相補的関係も成立するわけで、人間としてはそのあたりの『和』の智慧の完成をこそ急がねばならないのだと思う。

 

 

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