拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

馬骨的『大乗(仏教)』解釈

仏教が、大乗か小乗なんて気にする人は・・・仏教学者とか、学生、仏教マニア?

大半の人にとっては、どうでもいいようなことだろう。

先日、例の松岡正剛著『知の編集工学』を読んでいると、

『 私がいつも強調することなのだが、情報はつねに「乗り換え」と「着替え」と「持ち替え」を起こしている。どんな情報もつねに何かの乗り物に乗り、何らかの着物を着て、あれこれ持ち物をぶら下げている』・・・この行を読んだとき、

釈尊が悟り、仏教原理になった『諸行無常・諸法無我・涅槃寂静』というモノも『情報』とすると、『乗り換え、着替え、持ち替える』・・・つまり、時代とともに時代にふさわしい『形態』をとる、と、ここまで考えたとき、『大乗仏教』の『大乗』というのが、じつは単に『沢山の人が乗れる』という意味だけではなく、『いかなる時代も乗り越える』という意味の『大乗』・・・なのではないか?と思った。

 

      

私は今年2月、奈良の中宮寺を訪ねたとき、この仏像に出会った。

この像を観たとき、その姿の普遍性に驚き、感動した。

この仏像は、『弥勒菩薩』と目され、弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に現れ人々を救済すると言われているが、このとてつもない膨大な年数というのは、私の思う『大乗』を意味し象徴しているように思うのだ・・・。

 

 

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