拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

 『花 猫 風 月』観

考えてみると、『花鳥風月』的な文化観・・・って、私に訪れて来たのは、2006年になってデジカメ一眼レフで撮り始めた『猫』の写真ぐらいだったから、私が54歳の時であった。

 

それまで、私の生活に『花鳥風月』はあったのか、なかったのか?

写真を長年やっていたが、テーマがモノクロで撮る『人間』であったので、自然『花鳥風月』みたいな処に視点がいかなかったのだろうか。写真のデジタル化が、私に色の溢れた『花鳥風月』へと追いやった経過は、住んでいる場所がスイスフランス語圏であることも含めて考えると面白いものがある。

ただ、私の中には禅の修行で培った『Zen観』のようなモノがド〜ンと中心にあったので、ある意味それが、いつの日か『花鳥風月』へと帰郷するのは時間の問題であったと言える。今思い出したが、2011年にスマートフォンを買って、ツイッターで『俳句』を始めたことも、それとまったく同様で、禅者としては当然の成り行きとしての『帰郷』であったであろう。

 

『悟り』を説明する時、私はより理解しやすいように、『郷里』と書いて『サトリ』と読ませることを考えたが、私がここでいう『帰郷』とはまさに『郷里・サトリ』への帰着を意味する。

よって、『花鳥風月』を云々するときは、『悟り』を抜きに観賞することは出来ないと思っている。 それなしには野暮であり、無粋・・・ということになるだろう。

 

『 風月も 視点定まる 時まてば 花鳥と共に いきる我かな ...』馬骨 

 

 

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