拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『円覚』時

『私の愚脳に常に流れている命題は、「禅」が現代に果たすべき役割の研究と、その一般への周知・・・であろうか。』・・・とは、2年前の6月に書いたブログ記事の出だしの文句で、たまたまHatena Blogが過去記事の案内として提示したものを読み返したが、普段ほとんど誰とも『禅』について会話することもなく、ボーっと過ごしている私としては、自分の思いを言語化している自身の一文にハッとする、昨日あたりから30度超えする初夏の今日此の頃である。

なるほどね…、と関心しながら思うに、最近私が注目しているテーマは『時』で、一ヶ月ほど前に『漢字方程式』的に、解説したブログ記事がこれである。

最初に坐禅をした時の感想は、これまで何回か書いてきたが、つまるところ『時間』の問題であって、『坐禅』という何もしない状態・・・に対して『時間の無駄』であると、怒り心頭で断言した舌の乾かないうちに『時間』に対して『?』を抱いたことを私は覚えている。

今思うと、私は最初の坐禅で禅の核心に迫っていたわけで、その後の長〜い修行というのは、その確認、確証であったのだと思う。

そしてそれというのは、禅僧がよく描く『円相』に通じることを改めて思うが、それらを敷衍したとき、そもそも私が修行した円覚寺の『円覚』という文字、言葉に語り尽くされているように思うのは、単に私が単純であるからにほかならなく、駄洒落も手伝って『円覚寺』ならぬ『円覚時』という『時観』が内包された『時間』の問題は、現代人にとって最も入門しやすい問題として『禅』を取り組むうえで一つの大きな目安となるように思う。

この図は30年以上も前のカレンダーの図で『天上天下唯我独尊』を表すが、中心に『門構えに寺』の字を配し、その両側に『時』と『間』が在るのが、今思うと非常に深い・・・。

 

 

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