これから私は『自由』について、考えてみようと思うが、その前提として、『一切衆生悉有仏性』〜生きとし生けるものすべからく仏性を有しているという思想を『如来蔵思想』というそうだが、その考え方に『自分が生きている』という処から出発している。
今年になって私のブログを、『goo』から『はてな』に移行したときに、サブタイトルとして
『自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然』と書いて、『自然』や『自由』や『自分』の『自』の字が、『おのずから』というのと『みずから』という事が『重ね合わせ』になっている事の真意が『漢字方程式』によって解読されて以来、腑に(不二)落ちる事となった。
私にとって『自由』とは『自ずと示される道を、自ら歩む人』のことを云うのだと。
そしてそこには、厳しい『自然の掟』があって、その自由に『縁』を起こす人と、無縁の人があって、それこそ不自由を含めた『自由』が娑婆には横たわって様々な様相をほどこしている。

屋根の向こうにはレマン湖があり、その奥の山並みに一つだけ真っ白な山が見えるだろうか?
モンブラ(白い山)だが、名前が『白い山』だけに、別にその白さをなんとも思わずにいたが、この猛暑に唯一つ『白』であることはじつにクールだの図
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