わたし馬骨は、34年前だから39歳の時、禅の何たるかも解らないのに10年の修行をうち止め、勇んで渡欧したが、現地につくと現地語(フランス語)も知らず、そして最も肝心な『禅』が素晴らしい…という事以外は何も知らない自分に、唖然とし、以来唖の如く、今日定年退職するまで固く口を閉じていた、まことに粗忽(そこつ)者・・・との思いも込めた私の居士名『馬骨』であるなぁ、と思う今日此の頃。
私は再び、『"禅"は急げ!』との思いを強くして一人焦っている自分がいる。
そもそも禅者は、二つの時間軸を自在に生きている者として、『瞬時と永遠』の『間』只中にいる・・・ゆえの日本語『人間』を生きているというのに、誰も『間』を探究する者がいないという不条理に生きては、『一切皆苦』と嘆いている現状は一体何なんだ!
禅が人間の『間』を探究するものとして、そこには一切のイデオロギーが無い…
それ故に禅は『禅』なのである。
『失われた30年』と言って、政治・経済というのが惨めなほど落ちぶれながら、『ニッポン、凄い!』の凄いところが、私たち日本人が『人』の事を『人間』と称して、『間』をぶら下げている事実に、世界中の人は『感』じていながら、いまだそれを『観』にまで昇華していないだろう。
日本の文化はそれを大切に育んでき、鳥居やら禅庭やら縁起もので人々を喚起するが、それを本当に自分事として捉える『人間』は少ない。
『自分』・・・自ずと分かれ、自ずと分かる。そこには『間』が生じる。
そうしてみて、初めて人は『自他不二』の『慈悲心』を自覚するのだ。
世界広しといえども、『人』のことを『人間』と命名して覚醒エンジン『間』を完備している民族はそう多くはない・・・という自覚を、日本人は持つべきだろう。

浮くものを 上下に映す 水鏡 永遠と瞬時の 境目みせて :馬骨
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