日本には『観音信仰』…のようなものがあるようですが、それはそれ曖昧な国、日本のことですからどれくらいの人々がどれぐらい信仰しているのかハッキリわからないながら、案外大勢の人がその風潮を指示している・・・というようなところでしょうか。
私なんかは、神社と寺の区別もよくわからないまま大人になり、もうすぐ30(歳)にならんとする歳に縁あって禅寺で坐禅の修行を始めたわけですが、足掛け10年(といっても居士禅という立場なので、間がスカスカにあいた10年ですが)の修行に自ら区切りをつけて終えてみれば、私の心に残ったモノは『観音』一つであったようで。
『観音信仰』とは無縁の立場で禅の修行をしたところ、最後は『観音』でした・・・というのは、まことに変な話ですが、坐禅を始めるときに鳴らす鐘の音三回…というあたりから始まり、今思えば随所に『観音』への誘(いざな)いがあり、気が付いたら『観音』の真っ只中に自分がいることに気が付きました。
そうしてみると、『観音様』というのは、信仰の対象としてあるものではなく、『観音』そのものが禅で言うところの『戒・定・慧』の当体ではないかと私は思います。
インドの経典、『般若心経』を中国の僧侶が漢訳するとき、サンスクリット語のAvalokitesvaraを、鳩摩羅什が最初に『観世音菩薩』と訳し、後に玄奘が『観自在菩薩』と訳しましたが、『悟り』に目覚める際の受信としての『観音』、そして『悟り』の働き(発信)として『観自在』と観ればこれは表裏一体そのものであるといえます。
般若心経という経典がインドで何年ぐらいに出来上がったのか、私はわかりませんが、(鳩摩羅什が4、5世紀の人であるのでそれ以前からあったであろう)その当時、瞑想する仏教徒が観音に目覚める人が沢山いたのだと私は想像します。彼等が菩薩となって仏教を普及する中で大乗(仏教)のうねりが起こったのでしょう。無学の馬骨がこんな事言ってもどうかと思われるだけでしょうが、坐禅という瞑想の世界ではあり得る話だとは思います。
『観音』は動詞の『ing』の世界です、こんど仏像を観るときによく観察してください。
どの仏像も『観音』していることが、わかるでしょう。
私たちはその『観音』に只チューニング(調和)すればよいのだと思います。

『自然』とは、『自ずから』と『自ら』が調和した姿をいうのだと思う…
『 満月と モンブランとが 肩並べ レマン子誘う 夏の夕暮れ 』馬骨
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