仏教といっても、釈尊が『悟り』を開いてからおよそ2500年の間に、般若智に覚醒した仏教徒等によって様々な思索がなされ、そのたびに仏語が編み出された。
その大半を我々一般人は知ることなく、人生を終えるわけだ・・・。
『生死』について一生涯をかけて坐禅(瞑想・思索)した人々の編み出した数々の『仏語』…
について、その価値を見出さない現代人とは一体なんなのだろう・・・。
かくいう私も、ごく最近まで『仏語』にそういった価値を見いだせずにいた一人なので、上からの目線で偉そうに宣うのは憚られるのであるが、それにしても・・・と、思う今日此の頃。
仏語の『不二の法門』というのが、量子力学がいう『重ね合わせ・もつれ』現象なのではないか??などとここ数年来考えてくる中、『量』という字に何か引っかかるものがあって、それが、中国禅宗の六祖慧能(えのう)や曹洞宗の開祖・道元禅師などが引用・展開している概念の『非思量』であることを昨日思いついた。
『不二の法門』というのは、紀元1〜2世紀にインドで成立した経典『維摩経』を2世紀に鳩摩羅什が漢訳したこの経典に『不二』というキーワードが現れた、
今思うと、古くて真新しい概念で、この経典の中で菩薩たちが次々に「不二の境地」について意見を述べる場面があり、文殊菩薩がそれをまとめた意見を述べるが、最後は維摩居士が沈黙して示し、後に『維摩の一黙、雷の如し…』と高く評価されるわけだが、ここにこそ禅の原点がある・・・と観るのは私一人ではないだろう。
この『維摩経』とほぼ同じ頃できた経典『般若心経』では、『色即是空空即是色』と『不二』の思想を展開しているし、その延長線上に『非思量』なる仏語が現れたわけだ。
それらの仏語に見え隠れしているキーワードが『重ね合わせ・もつれ』なのだと思う。
近年では鈴木大拙が『即非の論理〜AはAではない、故にAである…』と表現している。
こういった『仏語』が何の役に立つ?・・・これらの『仏語』を『観(音)』することで、人生をとらえる被写界深度が深まる・・・つまり、人生が豊かになり、具体的には鬱病なんかが無くなってしまうだろう。

『 重ねずに 重なりてある 非思量は 量れば消える 猫のまどろみ… 』 馬骨
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