拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

 無眼のダルマ

今どき、無眼のダルマさんを買って、念願が成就したときダルマに眼を入れる…というような祝い方をする人は政治家以外にいるのだろうか?

古式豊かな伝統を重んじる芸能や民芸職人の世界なんかでは、あるいはそいう形で『目出度い』・・・と祝賀することもあるのだろうかと、想像したりする。

 

伝統にとぼしい北海道の片田舎(私の劣等感の一つ)育ちの私の周辺には、そういった慣習を眼にしたこともなく、ジジイになるこんにちを振り返っても見たことがない。

 

それでも数年前に、ローザンヌにある日本民芸店(アオイ)で高さが5~6cmの無眼のダルマさんを買って棚に飾ってあり、その目無しのダルマを漠然と眺めるに、『目出度い』という、達磨(ダルマ)の真意について考察したりする。

 

だいたいにして、ダルマさんが禅の祖師であることを知る人が少ない中で、『目出度い』と、ダルマさんに眼を入れて、なんでも祝賀する慣習そのものが笑止千万だが、そこはダルマさんの包容力のなせる業か、『悟り』とは正反対の自己顕示欲の輩にも金次第で社会は『入眼の儀式』を許している。

本来は『悟りの眼』が開眼したときに、真に『目出度い』としてダルマさんに眼を入れる…のだ。そのときに、ダルマさんの無眼が2つあることに私は大いにこだわる。

眼が入ったことで『観』が成立するが、その『観』は『色眼』と『空眼』の両眼が備わって初めて『開眼』となり、視界の深度が真に深まるのだと思う。

その過程で、一度『無眼の無』になることが、『開眼』するための重要なステップであることも、ダルマは教えている。

 

AIで描いてもらった場合、ユーモアに欠ける嫌いがあるが、『祝う』か『呪う』かの迫力を持って『入眼』を迫る気迫は感じられる。

それにしてもヨーロッパでも、置物としてのダルマさんが日本物店に大小カラフルに出回っているのが不思議というか、西洋人の『心』にもやはり『悟り』は『郷里・サトリ』として希求するのだろう・・・か?

 

 

 

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