
今年3月の奈良巡礼で、中宮寺の仏様『如意輪観世音菩薩』との出会いは私の仏教観を底無しに深めた・・・気がする。
7世紀にこんな仏像の仏様なんて…仏教はぶっ飛んでいる!と、思ったものだ。
『如意輪観世音菩薩』の名であるが、京都広隆寺の『弥勒菩薩』といろいろな点で酷似しているので、『弥勒菩薩』とも思われているらしい。
そういったあれこれを考慮して『如意輪』という言葉を考えてみる。
この菩薩名、『如意輪』が現れるのは 7世紀前半、中国(唐代初期)密教経典で、輪は『法輪』を意味しているわけだが、ここで馬骨流『如意輪』解釈を試みたい。
『如意輪』の『輪』であるが、7世紀の時代において、人や物を運ぶ『輪』というのは、その当時の最先端の技術であったであろう・・・という発想から考えると、『輪』は人智の及ぶ最先端(技術)を意味し、それは仏教が最先端技術(科学)を肯定したうえで、『如意』つまり人間の『意』の『如』くに使い回す智慧(般若智=HI)を意味しているのだと思う。
そうすると、この菩薩のもう一つの『弥勒』という名は、56億7000万年後を見据えているわけであるが、時代とともに進化する智慧による最新のテクノロジーをもすでに念頭に入れていることがうかがえる。
などと妄想していたら、大昔観た、手塚治虫のアニメ『西遊記』での、キントン雲と如意棒を得て傲慢になった悟空を、仏陀が諌める場面を思い出した。
キントン雲という、今で言うジェット機のような自由自在な乗り物を駆使して、アッという間に何千里と飛んでみせますよ・・・と、仏陀に宣言し、勇んでキントン雲で飛び立ち、ここまで来れば、仏陀にも見えないだろう・・・と、立ちションしたところ、それは仏陀の親指の付け根だった・・・という、落ちであった。(と思う。)
この話は、考えようによっては物凄く深い話だと思う。
どんなに優れたモノ(例えばAI)でも、HI(般若智)には、及ばない・・・ことを象徴している。

『如意輪』の『輪』が、光速で走る車であろうが、AI であろうが、『意の如く』活用する道具に過ぎない・・・このことを、『AI時代』に生きる者は皆、徹底周知することは大切であろう。
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