拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

 『ハロウイーン』考

昨日、我がアパートのデジタル回覧板で

『10月31日のよる17時30分以降、子供たちがハロウイーンの衣装で各アパートを巡回します。ご迷惑でない場合、OKの印に何かハロウイーン・マークをドアに貼っていただき、子供たちにキャンディとかチョコとか準備していただければ幸いです。』・・・的な連絡があり、相方は早速スーパーマーケットに買い出しに行き、ドアにカボチャのリボンを吊るしていた。

 

今朝になって、相方が『明日11月初旬は日本で言うお盆みたいに、墓参りに行く人が多いんだよ…』っていうものだから、もしかしてそれはハロウイーンにも関係あるのかな?、と聞くと相方は早速Chat-GPTで調べていた。

地元スイスフランス語圏は、宗教的にはキリスト教でもプロテスタントであり、カトリックのように、カーニバルとか祭り的な行事はほとんどなく、あまりにも地味で、部外者の私でもちょっと寂しい気がしていたが、さすがにハロウイーンは5,6年前から徐々にこのあたりにも親と子供が一緒になって近所も巻き込んで、悪魔とかドラキュラとか怖い仮装をして楽しむ行事となって定着しつつあり、子供のない我々の家にも子供たちが来てくれ、束の間の交流とはいえ、なかなかいいものだと思う。

 

ここからは、禅を通して至った『馬骨・死生観』からの『ハロウイーン』解釈であるが、

ヨーロッパでは昔から『メメント・モリ〜死を思え』的な形で、否定的な考え方にせよ『死』に意識を向ける・・・習慣というか行事があり、これもその一つであろう。

それって、じつは洋の東西に関係なく様々なやり方で『死』と向き合う機会を整えようとする人間の性(さが)なのだと思うが、本来その機会を利用して『悟次元』に覚醒すべきところを、一般大衆は『死』を忌み嫌う娑婆の風潮に流されて、覚醒とは逆方向へ向かってしまい、『死』とは何なのか・・・という大切な『問』を無視してしまっている。

その意味でも『佛理覚』の教えるところを探究することは、人間にとって、じつに『覚命(革命)』的ないき方なのだと、つくづく思う今日此の頃。

 

   

      我が家を訪れてくれた、最初のハロウイーン一家の図

 

 

 

 

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