私が30歳代で禅修行中、いまだ禅の何たるかも全く知らない当時、老師の提唱を聞きながら『これほど重要な「禅」が、何故こんな世界の片隅の寺でほそぼそと語られなければならないのか』・・・と、不審に思ったことを思い出していた。
そもそも私はオッチョコチョイで、禅の何たるかも知らない時期に、この禅に真剣に向き合う人間のあまりに少ない現状が不思議で不思議で…、そのことを老師はどう考えているのだろうか・・・と、提唱を聞きながらいぶかったものだ。
禅の何たるかも知らないながら、ただわけもなく『重要』と直感していたということになる。
その直感が直観と『観』に昇華し、『娑婆』と『禅定』の間を右往左往して三十数年、その直感した『重要』というのが、本当に『重要』であったと、爺ィになった私は改めて思う今日此の頃、『観境』という環境を整える事こそが、禅修行が私に教えた『重要』であったのだ。

長崎のグラバー邸を訪ねた時の自撮、写真はひたすら『悟次元』を私に観せていた…
自分の進路に迷っていた二十歳の時、『写真学校』の看板を電車の中からみた時、直感的に『これだ!』・・・と、それまで写真に興味を持っていたわけではないのに進路を決めた直感は、何時の日か『直観』にまで昇華することを直感していたのだと思う。
主観も客観もない『観』・・・に至る道はこうして始まったのだ。
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