清浄(しょうじょう)でなない、俗気の多い僧侶を口汚く罵る言葉『生臭坊主』・・・。
『悟り』というようなモノを突き詰めていった時、どうしても『無』に突き当たるわけだが、この無機的な『無』がひょっとした拍子に『空』に転換するというか昇華するには、そこには『命』の働きの根本である『有機的』要素の覚醒が必須である事に気がついた時、この『生臭』という口汚い言葉は案外に、人間にとって本質を突いている言葉であると思う今日此の頃
道元禅師のいう『・・・自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり…』というところの『万法に証せらるる』という処がこの有機的な『生臭』の覚醒であり、自覚ではないだろうか。
どんなに賢い『Ai』でも『生臭』は持てない。そしてそこが、私の言う『Hi=般若智』の素晴らしい処なのだと思う。

この2枚の絵は、私の高校3年生の時のものだが、無意識のレベルで自分の『生臭』さを自覚し始めた頃ではないか・・・と思う。後に禅修行を始める事になって、一瞬だが、僧侶の道も考慮したが、自分の『生臭』の自覚が、決してその道を許さず、居士として修行するのが自分の『道』であると考えたものだが…。その『生臭さ』こそが、『悟り』にとって最も大切な要素だとは、『仏様でも気がつきメイ』と言いたいところだが、仏様は、最初から『色即是空空即是色』と明言し、『色』こそ『空』であると宣言していたのだ。
私は親鸞聖人のことはよく知らないが、このあたりの自覚が彼の仏教の根底であったのではないかと勝手に妄想している。
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