『 禅修行を10年やりました…』と言うと、寺で雲水(修行僧)としてみっちり修行した・・・と思われるであろうが、私の場合はそうではなく、居士(一般の修行者)として最初の5年は土日坐禅会の一泊二日の修行、後半5年は老師の指導を受けて毎月の一週間の僧堂接心に参加する形での修行・・・ということで、娑婆と禅道場の間を行ったり来たりの修行で、誰が言ったか『せっかく接心で熱しても、沸騰する前に冷めちまうなぁ〜』というような陰口を聞いたことがあったが、まぁ、30歳過ぎた若オッサン居士の修行って、そんなもんよな〜と思いながら、渡欧を理由に39歳で寺での修行を打ち切った。
足掛け10年という修行歳月を思うと、我ながら何かは解ったつもりになっていたが、スイスで引越し屋をやっている時、仕事仲間のポルトガル人に、『仏教って、どんなものや?』って聞かれた時、一言も口から出てこない・・・現実に我ながら驚いたものだが。
まぁ、そりゃそうだろう、坐禅ってじっと黙って坐っているだけだから・・・、とはその時初めて気が付いたのだ。
まったく、自分を客観視出来ていない、自分の愚かさに呆れたのもその時であった。
そういった時期の自分の事を表現するにふさわしい、一言が、『木を見て森を見ず』・・・であると今日ふと思ったのだ。
というのも、私が老師から頂いた公案(禅問答)というのが、『庭前の柏樹子』であった。
ある弟子が、師に尋ねた。『祖師西来意?』・・・つまり、 禅の創始者、達磨さんが西(インド)から来た理由はなんですか?(つまり、禅とはなんですか?ということ)
師は答えた、『庭前の柏樹子』・・・つまり、『庭の前にある大樹である』と。
『禅とはなんぞや』という問いに対して、『庭の前の大樹』・・・ということで、以来私は『木』を前にして坐禅をしたわけで、私は徹底して『木』を見ることに専念したのだ。
しかし『見る』だけではダメらしく、老師は私にしばしば、『木に成りきってこい!』と叱咤激励したものだ。
これを5年間やったわけであるから、『木を見て森を見ず』というのは、当然の結果であったが、私は娑婆に出てもしばらくその事に気付きもしなかったのである。
この場合、『森』というのは『仏教の森』ということで、『木』というのは『悟り』そのものの事をいうだろう。普通『木を見て森を見ず』・・・というのは、一部のことに囚われて全体像の視点の欠如を言い、あまり良い事として捉えられていない。
しかし、禅修行に関しては、まさに『木を見て森を見ず』・・・というか、『木』すら
見てないのではないかと思うほど、『木』に成りきる事を求められ、それがベースであることを思うと、『木を見て森を見ず』というのが、肯定でき、10年の修行を終えた頃の私がまさにそれであったわけである。
『木』を徹底的に観る時期を経て、『森』を観察するのは、『木』をよく知らにずに『森』を観る事とは全く違うことに・・・気が付く日が来るであろう。
それは『般若智=Hi』を知らずして、『人工知能=Ai』に怯(おび)える愚かさに似ている。

奇しくも私の苗字は『森』であるが、
禅を始めるまで、『木』も『森』もどちらも観えていなかった事を思うと
禅との出会いは有難いものであると思う今日此の頃。
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