拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

失われた『記憶』求めて…

毎日が日曜日…のような私にも、いよいよ年末も残すところあと二日となった。

 

一般的にヨーロッパ人よりも日本人は『年末・年始』の意識が強いように思う。

日本人は、師走だ!忘年会だ!大掃除!とかなんとか言って、自分等を年末にむかって追い込む文化があるように思う。

そういえば禅寺での臘八接心(ろうはつせっしん)という12月の坐禅修行は、まるでこれが人生最後の接心(修行)・・・ぐらいの切羽詰まったより深刻な面持ちで修行に追い込む雰囲気があった。

そして、それの結果はどうであれ、各修行者に何らかの爪痕を残したことは、私のようなボンクラ修行者であっても、今思えば確かに『爪痕・・・What else?』と三十数年の歳月を超えて響いているのだから、その効果やいかに・・・。

 

その追い詰められた、結果?であろうか、どこかで聞いたことのある文句が今日のブログ・タイトルとなった。

『悟りは郷理(さとり)』・・・という、いかにもオヤジ・ギャグな馬骨論を提唱しているが、そのあたりを自分なりに徘徊していると、『郷理』とはつまるところ、『生命の根源』を意味しているようで・・・と、そこまで考えた時、我々人間は2、3歳ぐらいの幼少時の『記憶が無い』よなぁ…となったのだ。

そして不思議なことに、誰もその事を問題にしていない!・・・

まぁ、理屈で言えば『脳がまだ出来上がっていない、記憶を定着する言葉をまだマスターしていない』などなどあって、赤ん坊時期の記憶が無いのは、当たり前ということで、誰もが済ましてしまっている現状が現状なのだ。

 

『赤ん坊』は、一人では何にも出来ない、生物としては最弱の存在でありながら、人々に『希望と勇気』を与える存在で、それは般若心経が何度も繰り返し主張する『心無罣礙・無羅礙故(心に何も思い煩うことが無い故)無有恐怖・遠離一切顛倒夢想(何の恐れもないし、何の疑いも無い・・・)』というような所に帰着する。

自分自身が、そのような『存在』であった幼少期の記憶に帰着する事こそが、『悟りであり、郷理(さとり)』であるのに、誰もそこに意識を向けない・・・、いや、釈尊はそこに眼を向けた最初の人間であり、禅こそは『直指人心・見性成仏』といって、その一点に注視した一群ではなかったか・・・と私は思う。

坐禅で『無』に向き合う・・・というのは、人々が忘れ失っている『記憶』の覚醒のために違いない、『悟り』ということを表すのに『覚り』とも言うが、記憶の奥底で覚えているのが『心無罣礙(シンムケゲ)』の郷理なのだと思う。

 

      

SNSを始めた時、私は無意識に自分の幼少期の写真を使ったが、今思うとそれは偶然ではなかつた。それは私にとって『失われた記憶』の探究の象徴だったのだ。

 

 

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