拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『禅』という Final Answer

私は今、スイスのレマン湖畔 にある小さな街の小さなアパートの、日本風に言えば3畳間の書斎で、たった独りで『禅〜!』と叫んでいるような気がしている。

 

もしかしたら、私の家に掛かっている掛け軸の『独坐大雄峰』・・・と言った坊さんも、そんな気持ちの発露だったのだろうか? 私のはこの禅僧のはるか下のレベルでの絶叫なのだろうが、なんだか叫ばずにはいられない・・・そしてまたそれが禅なのだろうか。

 

禅の祖師『達磨』さんの出現は、紀元5、6世紀ということだが、その達磨さんの『禅〜!』の叫びは、世の中のあらゆる『?者』に与える、時空を超えた『Final Answer』であったと私は今朝確信した・・・。

 

ジョン・レノンは『Imagine』で世界中の人々に『問』を投げかけた。

人々はその『問』に大いに共感したものの、大半の者は答を見つけられなかったのでは?

しかし、東洋の片隅で5、6世紀にすでに人類は、Final Answer『禅〜!』を叫んでいたのだ。

 

ただ生き(行き)方が、普通と真反対の『無』に向かう・・・というヘンテコな『道』だから、なかなか『道』に行き当たらないという難しさはある。

 

『無』に向かう『時間の無駄』に、人は恐れをなすだろう。

しかし、『時』というのが、『寺』から発生している(佛語漢字方程式より)、つまり『寺』そのものには『時間が無い』・・・という事実は、寺で坐禅をしなければ解らないのだ。

 

娑婆のあらゆる『?』は、『禅〜!』というFinal Answerで片付くだろう。

なぜなら、『禅』は人間であることの『アイデンティティ』そのものだからだ。

 

『AI』一辺倒の世の中だからこそ、『禅〜!』とあらゆる『?』を坐断する智慧が今こそ必要なのだ。

 

 

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