拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『悟りの 郷(サト)理 』論

今日のこのタイトル・・・、無学な者ほど、いっぱしの学術的『理論』風、術語を弄ぼうとする自分がカワイイ…というか笑えてくる今日此の頃。

 

現代の博覧強記を自認しているであろう、読書家で、頭の切れる青年感を出している深井龍之介…(本名なのか、自称か?)自身がCEOの株式会社COTENが提供するYoutube動画『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』番組で、5回に渡り仏教を縦横無尽に説く真言密教僧侶、松波龍源師の仏教講話を拝聴した。

その話に耳を傾け、学びと刺激を受けた事から今日のタイトルとなった。 

 

①仏教の全体像 ②無我(空)について ③唯識 ④余剰・三句 ⑤六波羅蜜 ・・・

理路整然と説き明かされる仏教論・・・それでも解ったような解らないような難解な仏教。

とにかく釈尊が悟りを開いて仏教が起こってから2500年の歳月が経ち、異口同音に語られ、創作された仏教用語を、悟り以前の人間が理解するのは容易では無い…事をあらためて知らされた思い。

それでも、語彙の定義に厳格な龍源師によって語られる仏教の第一義は、『抜苦与楽・離苦得楽』であり、確かに仏教を入門書から学び始めると『釈迦の出家』の動機『四苦八苦』という辺りから説き始められる・・・。

 

そういった仏教史の流れの中で、早くも6世紀に『達磨大師』が出現し、『不立文字・教外別伝』を打ち出し、小難しくなった仏教理論、経典の類を『坐断』し、『直指人心・見性成仏』の禅を打ち立て、それまで仏教経典を後生大事に死守していた僧侶達の度肝を抜いた。

 

それはさておき、龍源師も認めている仏教第一義『抜苦与楽・離苦得楽』を基本とした仏教論を聞いていて、私が思ったのは、仏教の第一義は、実はそれではなく、『抜苦与楽・離苦得楽』を第二義的な入口とした、禅で言うところの『見性成仏』であり、一般に言う『アイデンティティ』の『直指』、それこそが仏教の第一義なのだという事であった。

 

であるからこその『悟りの郷理』論で、あらゆる人間にとって『ホームベース』となる佛語的『命題』(命が探究する根源的テーマ)なのだと思う。

臨済禅師は『無位の真人』と言い、道元禅師は『仏道を習うというは、自己を習うなり…』といった表現で、『アイデンティティ=自己同一性』の帰着する処を言明したことは、禅の最も素晴らしい点ではなかったか。

 

一般に『悟り』というと、何もない処から『覚醒』する、と捉えられるが、そうではなく、山本太郎の消費税廃止論ではないが、『無い処から取るな、有る処から取れ!』と同じように『悟り』もまた、『持って生まれた生命こそが郷理』で、そこに帰る事が『悟り』で、帰る処が『郷理』ということで、難解とかそういう問題ではまったくない、ということだ。

 

 本日、ジュネーブ領事館事務所で衆議院選挙『在外投票』してきましたの図(でもないか)

 

 

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