私はこれまで『色空』の『空』にとらわれすぎて、『無』の大切さをないがしろにした…
『無』について考察すると、当然の如く『南無』の古(いにしえ)の教えに行き着く。
【「南無(なむ)」はサンスクリット語の namo(ナモ) に由来し
「敬礼」「帰依(きえ)する」「身も心もゆだねる」という意味。
つまり―― 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音菩薩
この「南無」はすべて、「私はあなたに帰依します」という宣言】・・・とのこと。
禅者である馬骨としては、『南無』はまさに『無』そのものに帰依する事・・・であろうか。
そう思うと、禅では確かに、やたらと『無』を主張している事を思い出した。
しかし、『無』の先に何があるのか?・・・とまで考え至ったとき、『彼岸』を思いついたが
娑婆ではよく『彼岸』の言葉は聞くが、『此岸』という言葉は全く聞かない事に気が付く。
そういった事情も何も知らないで、私は昔、禅修行を始めたが、
それって、此岸にある自分を、行き先のみえない彼岸にむかって『無の大海原』を数息観で坐泳する姿ではなかったであろうか・・・。
何のために泳いでいるのか解らないで、何度も溺れそうになるが、般若心経やら、四弘誓願、坐禅和讃とか、頭上から聞こえたり、老師の提唱や私の個人教授的、鈴木大拙の書に励まされたりしながら、また或いはそれこそ『無』になりながら『彼岸』に向かっていただろう。
『摩訶般若波羅蜜多心経』というのが、『偉大なる般若智への到彼岸』である事を知れば
『無の大海原』に彼岸に向かって飛び込む…のもまた一興。

立ち上げる 南無の初期化の 般若智は 我を救わば 彼も救わる :馬骨
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