拈華微笑

自ずと示される道は、自ら歩むことで到る・・・自然

『無』の字解読

いよいよ『無』の字について、佛語漢字方程式を解く時が来たか・・・。

 

まさか、自分にそんな時が来るとは?仏様でも知らなかったであろう…。

しかし、この『無』について語る前に、どうしても読み上げたいお経がある気がしてる。

それは、時折修行中寺で読んだ『興禅大燈国師遺誡』で、兎に角カッコいいお経だ。

 

『 汝ら諸人 この山中に来たって、道(の為に頭(こうべ)をあつむ

  衣食(えじき)の為にすること莫(なか)れ

  肩あって着ずということなく口あって食らわずということなし

  ただ須(すべか)らく十二時中 無理会(むりえ)の処に向かって究め来たり究め去るべし

  光陰矢の如し慎んで雑用心(ぞうようしん)することなかれ 看守せよ 看守せよ

  老僧行脚(ろうそうあんぎゃ)の後 あるいは寺門繁興(じもんはんこう)
  仏閣経巻(ぶっかくきょうかん)金銀をちりばめ 多衆閙熱(にょうねつ)
  或いは誦経(じゅきょう)諷咒(ふうじゅ)、 長坐不臥(ちょうざふが)
  一食卯斎(いちじきぼうさい) 六時行道 たとい恁麼(いんも)にし去るといえども

  仏祖不伝の妙道を以て 胸間に掛在せずんば
  たちまち因果を撥無(はつむ)し 真風地(しんぷうち)に堕(お)つ
  みなこれ邪魔(じゃま)の種族(しゅぞく)なり

  老僧世を去ること久しくとも、児孫と称することを許さじ
  或いは一人あり 野外に綿絶(めんぜつ)し 一把茅底 折脚鐺内に
  野菜根を煮て喫して日を過すとも
  専一に己事を究明する底は 老僧と日日相見(にちにちしょうけん)
  報恩底(ほうおんてい)の人なり

  誰か敢(あ)えて軽忽(きょうこつ)せんや
  勉旃勉旃(べんせんべんせん) 』

 

暗記すべきお経であるが、今からじゃちょっと無理かなぁ…。

 

禅というのが『己事究明』つまり、『俺って何?』を究明することだが、それに先立って『理会の処に向かって究め来たり、究め去るべし』・・・なのよ。

そしてそこが禅を『禅』たらしめる点ではないだろうか。

そこを体験をすることなしに、禅は語れんべや・・・そうじゃないかい?

 

で、『無』の字であるが、私の持っている電子辞書『新漢語林』で『無』の解字を見ると

『もと、舞の字と同形で、人の舞う姿にかたどり、まいの意味を表したが、借りて『ない』の意味に用いる』・・・とあって、私は長い間戸惑っていた。

何で、『無』が『舞』と関係あるの??と、不思議であり、わけが解らずにいて、まぁ、『舞』については、無視して『無』を考えよう・・・とあれこれ考えていたある日

 

三十数年前、スイスに渡航する前に日本で買った掛軸のこの絵を観て、ハタと思った。

 

『舞』には音楽が必要で、『無』の上部は弦楽器を表しているのではと思ったのだ。

 

    

 

四本の縦線は森羅万象を奏でる弦(ノイズ)であり、
その中を横断する一線は「息」から「観音」へと昇華するはたらきを象る。
その字姿こそが「無」ではないか

だから、『無』の字は、観音の舞う姿を表している・・・わけだ。

 

しかし、それにしてもこの掛軸、今日私が『無』を解読するために掛かっていたのだろうか。

 

森羅万象のノイズが『諸行無常』であり、『観音』が『諸法無我』で、遊戯三昧で舞うのが『涅槃寂静』ではなかろうか・・・。  勉旃勉旃

 

 

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